「アニエス、ここにいたのか」
 クロードが駆け寄ってくるが、今はあまり顔を見たくなくて、そっと視線を逸らす。

「クロード、フィリップがちょっかいを出しているぞ。ちゃんと見ていた方がいい」
「それは……。お手数をおかけしました、兄上」
「構わない。行くぞ」
「またお会いしましょう、アニエスさん」
 立ち去る王太子夫妻を礼で見送ると、クロードが心配そうにアニエスに近寄ってきた。


「大丈夫だった? アニエス」
「はい、王太子殿下が助けてくださいました」
「それならよかった。すまない、俺が離れたせいで」

 離れて黒髪の女性と話していたのは知っている。
 そう言えば、以前女性達が黒髪が美しいワトー公爵令嬢とクロードが親しいと言っていた。
 彼女が噂の公爵令嬢なのか、そして番なのかはわからない。
 何にしても、アニエス以外の女性がクロードの運命の人であることには、変わりがない。

「いえ、私のことは放って置いてくださって結構です。どうぞ、殿下はご自由になさってください」
 にこりと微笑むアニエスに、クロードは眉を顰めたが、それもどうでもいい。

「疲れてしまったので、私はこれで失礼致します」
 礼をして、そのままホールを出るべく足早に歩きだす。
 契約は今日までだし、王太子夫妻にも挨拶できたのでもういいだろう。

 後は家に帰り、今後を考えるだけだ。
 アニエスとしては領地での平民生活を捨てがたいのだが、ブノワをどう説得したものだろうか。
 そのままホールを出ようとすると、クロードが慌てて追いかけて来た。


「アニエス、どうしたんだ」
「何がでしょうか」
 クロードが隣に来ても、アニエスは足を止めない。
 そのまま二人でホールを出ると、回廊へと進んで行く。

「何故、殿下と呼ぶんだ。名前で呼んでくれと……」
「――半年経ちました」
「え?」

「契約は半年後の王太子殿下の婚姻まで、でしたよね」
「それは」
 そうだが、とクロードが言葉尻を濁す。

「この半年、身に余る扱いをしていただき、感謝しております。おかげで弟への影響は防げそうですし、キノコのおかげで資金も溜まりました」
「資金? ……アニエス、何が言いたいんだ」

「今日で、おしまいです。今までありがとうございました」
「アニエス、待て。話を」
 クロードがアニエスの腕を掴んだ途端、白い手袋に淡褐色のキノコの塊が一気に生えてきた。
 束生するナラターケに驚いたクロードが手を離した隙に進もうとするが、もう一度腕を掴まれる。

 さすがにこのままでは歩けないので、クロードに向き直す。
 困惑の表情で手にキノコの山を乗せているのに麗しいとは、キノコの王子はなかなか凄い。


「……始めに、約束をしたのを覚えていますか? 私に嘘をつかない、裏切らないと」
「ああ」
(つがい)を見つけたら、すぐに教えてくださいと言いましたよね」
 その言葉を口にした途端、クロードの顔が強張った。

「それは――何故、知っているんだ」
「やはり、ですか」
 ついに、本人までもが認めた。
 クロードには番が……魂の伴侶が既にいることは確定した。

「……王太子殿下に、教えていただきました」

 嘘をついたのだ、クロードは。
 番を見つけたのに、それを言わなかった。
 番がいる以上、アニエスは偽物で邪魔者だ。
 いや、今回はそもそも偽物だったから、問題ないのか。

「半年の契約も終わりですし、約束も違えられた以上、もうお会いすることはありません。今までありがとうございました。殿下、どうぞお幸せに。これは餞別です」
 胸の矢車菊の飾りに挟んでいたセイヨウショウーロをクロードの手に乗せると、出来る限り優雅に、貴族令嬢に相応しく上品に微笑んだ。
 
 何かを言いかけたクロードの声を遮るように、鼻の頭に青灰色のキノコが生える。
 青灰色の棒のような柄の先端が崩れて不思議な形のキノコは、コウボウフーデだろう。
 随分珍しいキノコが生えたが、これも餞別にちょうどいいかもしれない。
 捕まれていた腕を振り払うと、アニエスは馬車に乗るべく回廊を進んで行った。 



 ……これでいい。

 元々半年の契約だったし、婚約破棄の悪評はもう鳴りを潜めているからケヴィンに影響も少ないだろうし、クロードも番を見つけたのならちょうど潮時だ。
 キノコで資金も稼げたし、これでいい。
 そう思うのに、涙がポロポロ零れてくる。

 ……また、番だ。
 また、アニエスは偽物だ。
 運命の相手、魂の伴侶……それはアニエスではない誰かのもので、アニエスは偽物で邪魔者だ。 

「……好き、だったのに」
 ポロリと零れた言葉で、ようやく自分の本音に気付く。

 非の打ちどころのない容姿の王子様。
 キノコに怯えるどころか、キノコを愛する変態。
 桃花色の髪を厭わず、綺麗だと言ってくれた人。
 契約だったけれど、それでも一緒にいて楽しかった。

 ……だが 結局はアニエスの勝手な勘違いだ。
 クロードは契約をこなしただけだし、ただ自らの相手と出会っただけだ。
 アニエスの勝手な好意で、煩わせるようなことがあってはいけない。


「……お幸せにって、言えました」

 フィリップの時には言えなかった言葉だ。
 少しはアニエスも成長したのだろうか。
 そう思えば、少しだけ心が軽くなった。
 涙を拭うと、呼吸を整える。

「大丈夫です。きっと、よくある憧れですから。すぐに忘れますから」
 だから、早く離れよう。
 愚かな想いが育つ前に。

 もう契約もないし、王都に残る理由はない。
 というか、このまま王都でクロードの噂を聞くのはさすがにつらい。
 資金はあるのだから、すぐに領地に出発してしまおうか。

 いきなり一人暮らしで平民生活だとブノワの反対が大きいから、とりあえず領地でのんびりと薬草農家な生活を送るのもいいかもしれない。
 落ち着いた頃には、領地にもクロードの婚約なり結婚の話が伝わってくるだろう。
 その頃には、笑顔で祝福の言葉を言えるようになるはずだ。

 先の見通しがついたことで気持ちが落ち着き、ほんの少し笑うことができた。




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【今日のキノコ】
ナラタケ(楢茸)
淡褐色の傘を持ち、束生と群生が得意な食用キノコ。
『木材腐朽菌倶楽部』の代表で、生立木の根に寄生して枯死させるほどの実力者。
アニエスを暴漢から助けてくれたお礼を言おうと生えてきたのだが、タイミングを間違えた。

セイヨウショウロ(「竜の血と番」参照)
塊状のキノコ……いわゆるトリュフで、三大珍味にも数えられる高級食用キノコ。
アニエスを慰めるために食べられる覚悟も売られる覚悟もしていたが、クロードへの餞別にされてちょっと困惑気味。

コウボウフデ(弘法筆)
青灰色の棒の先端が潰れたような形の、非常に珍しいキノコ。
固い柄もしっかりしていて、名前の通り頭部の胞子で紙に文字を書く事ができる。
「キノコの変態に贈る餞別」というアニエスの思いに応えてやって来た、激レアキノコ。
だが、まさかの深刻な雰囲気にナラタケと共にうろたえている。