さっさと離れようとするアニエスの腕を、フィリップが掴む。
 その瞬間、フィリップの腕に鮮やかなオレンジ色のキノコが生えた。

 皮を剥いたオレンジの様に、中央にオレンジ色の球体、周囲には平たい星型の物が広がっている。
 確か、ツチグーリという名前のキノコだったと思うが、こんな色ではなかったはずだ。
 アニエスの心の乱れが、キノコの色にも反映されたのかもしれない。

 それにしても、フィリップにキノコが生えるなんて、一体何年ぶりだろう。
 暫し二人でキノコを見つめてしまうが、先に我に返ったフィリップは何故か苦笑している。


「……まだ俺を好きなんだろう、アニエス」
「いえいえ、見てください。キノコを見てくださいよ。これが現実ですよ。大体、元々好きじゃありませんし」

 多少の例外はあるものの、恐怖心や警戒心などの感情の揺れに反応してキノコは生える。
 初対面だというのならともかく、長年婚約者だったフィリップにキノコが生えたというのは、アニエスの中で彼が安心できない存在になったという証明だ。

 もちろんフィリップもそれをわかっているはず。
 だが、何故か鈍色の瞳を細めるフィリップの表情は穏やかだ。

「大丈夫。綺麗なオレンジ色だから、愛情の色だ」
 ――どこから来るのだ、その根拠のない自信は。
 安定の自己中心的勘違いだが、ここまで来ると心配なくらいだ。

 アニエスの心の声に応えるように、ツチグーリが更に増えてフィリップの両腕に二つずつ並んだ。
 それどころか頭には燃え上がる炎の様な赤いキノコ――カエンターケがこんもりと生えているし、両肩には白い塊から血が滴っているように見えるキノコ――ブリーディング・トゥースーが生えている。

 生えているどころか、樹液のような赤い液体が大盤振る舞いで滴っており、既にフィリップの上着が赤く染まり始めていた。

「色以前に、キノコが生えた現実に目を向けてください」
「ルフォール伯爵にもキノコは生えただろう」
「それはごく稀ですし、生えても高級食用キノコです。こんな、見るからに珍妙なオレンジ色のキノコなんて生えませんし、赤い液体まみれにもなっていません」

「俺は些細なことは気にしない」
「気にするべきところを決定的に間違っています。放してください」
 どうにか掴まれた腕を振り払おうとするのだが、腐っても男性。
 力ではかなわない。


 その瞬間、突然フィリップが激しく咳こんだ。
 何かを咀嚼して飲み込んだ様子の後、口から取り出したのは少しかじられて欠けたキノコだ。
 中央がくぼんだ黄土褐色の傘は、恐らくドクササーコだろう。

「……フィリップ様、それ食べました?」
「ぐ、少しな。口の中に直接生やすとは、腕を上げたなアニエス」
 咳き込みながら謎の賛辞を贈ってきたが、フィリップは自身の身にせまる危機に気付いていない。

 ドクササーコは体内潜入後、潜伏4~5日後から手足の先と陰茎のみを執拗に攻撃し、激痛を1か月以上継続させる特異な毒キノコなのだが……まあ、死にはしないだろうからいいとして。

 それにしても、キノコが口の中に直接生えたなんて初めてのことだ。
 キノコの捨て身の攻撃とでも言うのだろうか。
 フィリップへの怒りに反応したのだとすると、キノコはアニエスの心情に思った以上に共鳴しているようだ。
 ありがたいような怖いような複雑な気持ちである。

 怖いと言えば、突然のキノコ攻撃を受けてもなおフィリップはアニエスの手を放さない。
 握力が凄いだけなのか執念なのか知らないが、何にしてもうっとうしい。

 こうなったら、大声をあげて周囲の目を引くしかない。
 プライドだけは無駄に高いフィリップならば、醜聞を嫌って離れるはずだ。
 その時、アニエスの背後から声がかけられた。


「――女性の腕を掴むとは感心しないな、フィリップ」

 力強い声の持ち主は、本日の主役である王太子だ。
 鈍色の瞳の王太子がフィリップの腕を外すと同時に、アニエスのそばに美しい女性が立つ。
 王太子と同じ黒髪の王太子妃は、アニエスを庇うように寄り添っている。

「元婚約者とはいえ、御令嬢に取る態度ではないな。まだ王族なのだから、わきまえてくれないかフィリップ。大体……それは何だ」

 王太子の訝し気な視線の向かう先は、フィリップの腕に生えたオレンジ色のキノコだ。
 色と形が妙なせいで、キノコには見えないだろう。
 さしずめ、食べかけのオレンジといったところか。

 王太子に婚約を祝う舞踏会で腕に食べかけのオレンジを並べる不敬な人間は、恐らくフィリップ一人だけだろう。
 しかもよく見れば頭には赤い鹿の角のような物がこんもりと乗っているし、両肩の白い塊からは赤い液体が血のように滴って腕を濡らしていた。

「俺はただ、アニエスを助けようと」
 慌てた様子のフィリップはそう言ってツチグーリをむしり取ると、王太子の前に差し出す。
「これは、愛の証です」

 そう言ってツチグーリの球体を押したせいで、フィリップの顔に向けて一気に胞子が噴射される。
 ツチグーリの球体には胞子が詰まっており、刺激すると噴き出すのだ。

 顔面で胞子を受け止めたフィリップは、激しくむせて、涙ぐんでいる。
 ブリーディング・トゥースーの液体で濡れているせいで、腕全体に胞子が付着して薄汚れたように見えた。

 胞子のせいなのか、何となく周囲に異臭が漂ってきた気もする。
 王太子と王太子妃は目を瞠り、見つめ合うとため息をついた。


「……フィリップ。君は以前、公衆の面前で婚約破棄を叫び、彼女を侮辱した。君の勝手で彼女との関係は終了しているんだ。クロードにも言われているだろうが、この上で迷惑をかけるというのなら、私も王族として黙ってはいないぞ」

 王太子が厳しい視線を送りつけると、フィリップは目に見えて怯んだ。
 王族であることにプライドを持っているフィリップは、王族中の王族と言える王太子にはさすがに逆らえないらしい。

「いつでも俺の所に来ていいからな、アニエス」
 胞子にむせて後ずさりしながらも、ろくなことを口にしない。
「行くわけありません。馬鹿ですか? あなたの愛人なんて、死んでもお断りです」
 アニエスが却下するとフィリップは何かを言いかけたが、王太子のひと睨みであっさりと退散していった。

 背中に蛸の足のような物がびっしりとついているが、あれは恐らくタコスッポンターケだろう。
 粘液から腐肉臭を出すキノコだが……どうりで何だか臭いと思った。
 全身キノコづくしのフィリップを見送ると、アニエスは王太子に深く頭を下げる。



「王太子殿下、ありがとうございました」
「いや、構わない。会うのは初めてだな、ルフォール伯爵令嬢。フィリップが度々失礼をした」
 アニエスの挨拶に、王太子は笑いながらうなずいて答えた。

 いくらフィリップが従弟で王族とはいえ、王太子がアニエスに謝る必要などない。
 先程のやりとりやアニエスに向ける優しい表情からして、誠実な人物なのだろう。
 王族が皆フィリップのようなら国が沈んでしまうので、国民として安心と感謝の気持ちが生まれた。

「腕は大丈夫? 痛くはありませんか?」
 美しい黒髪を揺らして、王太子妃が心配そうにアニエスの様子を窺う。
 王太子が誠実なら、王太子妃もまた優しい。
 たとえこれが外面だとしても、それすら取り繕えないフィリップとは雲泥の差である。

「はい。……ご挨拶が遅れて申し訳ありません。アニエス・ルフォールと申します。王太子殿下、王太子妃殿下、ご結婚おめでとうございます」
 すると、王太子妃は安心したとばかりに微笑んだ。

「ありがとう。(つがい)なんて言われた時には驚いたものだけれど、今は幸せよ」
 突然出て来たその言葉に、アニエスは一瞬固まった。
「王太子妃殿下は、番……なのですか?」
「ええ。王太子殿下は継承権第一位。竜の血の濃い方だから」

 頬を染める様は可愛らしく、この結婚が幸せなものだと雄弁に語ってくれる。
 王位継承権第一位の王太子が竜の血が濃く、番が存在するというのならば、恐らく継承権第二位のクロードもまた、同じなのだろう。
 サビーナとフィリップの言葉が、アニエスの脳裏にまざまざとよみがえる。


「……クロード様も番を見つけたと伺いました」

 嘘は言っていない。
 フィリップが言っていたことではあるが、今は聞いたという報告のために口にしたのではない。
 兄である王太子ならば知っているかもしれないという、確認だ。

 フィリップすら正確には知らなかったのだから、伯爵令嬢が聞いていい話題ではないだろう。
 王太子にかまをかけるなんて不敬だとは思うが、事実を確認せずにはいられなかった。
 否定するか怒るかと身構えていると、王太子は瞬いた後、柔らかく微笑んだ。

「ああ、ようやく言ったのか。私は早く言わないとかえって揉めるし、失礼だと言っていたのだが」

 楽し気なその声に、すっと血の気が引くような気がした。
 ――そうか、本当に見つけたのだ。
 そして、フィリップの言う通り、それはアニエスではあり得ない。

 揉めるというのは、きっとアニエスが恋人のような扱いでいることか。
 恐らく、王太子はアニエスとクロードの契約を知っている。
 その上で、早くアニエスに現実を見せないと揉めると言いたいのだろう。

「……大丈夫です。揉めたりしませんので、ご安心ください」
 勘違いして迷惑をかけたり、まして揉めるようなことはしない。
 震えそうになる声を抑えて答えると、王太子は嬉しそうに微笑んでいる。
「そうか。それは良かった」

 だから後顧の憂いなく、弟王子の番を受け入れてください。
 ――邪魔者は消えますから。
 心の中でそう伝えると、アニエスは微笑んだ。




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へなちょこ撃退キノコ祭り開催中です。
怒りで荒ぶるキノコをお楽しみください。

【今日のキノコ】
ツチグリ(土栗)
ヒトデのような外皮の真ん中に球体があり、皮を剥いたオレンジのような見た目。
本来褐色だがフィリップに対する怒りからオレンジ色に変化した結果、本当に皮を剥いたオレンジのようになった。
「愛情の色じゃない! 怒りの色だ!」と更に怒っている。
アニエスによるノー・キノコ枠という保護が外れたフィリップに、一言文句を言ってやろうと胞子をぶちまけた。

カエンタケ(「素が出ました」参照)
燃え上がる炎の形の赤い猛毒キノコ。
致死量は数グラムで、触れるだけでも毒素が吸収される、毒キノコ界の重鎮。
「毛根もげろ」というブノワの祈りが通じ、頭皮に降臨した。
触れるだけでも皮膚に炎症を起こすので、生えた部分の毛根はほぼ、もげることだろう。

ブリーディング・トゥース(流血する歯)
白い塊から血が滴っているように見え、まるでお菓子の「ぷっ〇ょ」のグミ部分がジャムになって溢れてきた感じ。
食用には適さないが味は苦い……キノコの勇者がまた食べたらしい。
アニエスをいじめた報復として袖をぐっしょりと赤く染めたが、この液体には抗菌性があるので、見た目の割には優しい報復である。

ドクササコ (毒笹子)
黄土褐色の中央がへこんだ傘を持つ猛毒キノコで、攻撃の陰湿さが凄い。
体内潜入後、潜伏4~5日後から手足の先と陰茎のみを執拗に攻撃し、激痛を1か月以上継続させる。
何故、そこを狙うのかは謎。
「アニエスを長年抑圧した罪は、陰茎激痛罪に値する!」と訴えてカエンタケの許可を取り、口の中に特攻を仕掛けた勇猛果敢なキノコ。

タコスッポンタケ(悪魔の指)
卵の殻のような物を破って真っ赤な触手が伸び、黒い粘液のまだら模様に覆われているキノコ。
どう見ても地面から逆さに生えた蛸の足という見た目で、吸盤にも見える粘液が腐肉臭を放つ。
「嗅覚を刺激して鼻をもぐ」と宣言し、フィリップの背中で蛸の足を広げて虎視眈々と機会を窺っている。
アニエスと距離を取ってから、五割増しの腐肉臭を惜しげもなく振りまく予定。