「クロード様」
 その名前を呼んだ途端、男性はびくりと肩を震わせた。

「アニエス、遅いから迎えに来たよ。……そちらは?」
 じろりと視線を向けられ、男性の顔色が一気に青くなっていく。
「殿下、し、失礼致しました!」
 慌てた様子でそう叫ぶと、男性はそのまま走り去っていく。
 その後ろ姿を見ていたクロードが、眉を顰めた。

「――油断も隙も無いな。まあ、アニエスの今の姿を見たのなら、気持ちはわからないでもないが」
「仕方ありません。私が髪をおろしているのがいけないのです。不愉快だと言われるのには慣れていますが、わざわざ呼び止めてまで伝えたいのですから、よほど気分を害したのでしょうね」

 髪をまとめているだけでこれを防いでいたのだから、かなりの効果だ。
 本当に、この点に関してだけはフィリップに感謝である。
 それにしても、この国の人はどれだけ桃花色の髪が嫌いなのだろうか。

「……どういう意味だ?」
「言葉の通りですが」
 きょとんとしてクロードを見ていると、眉間に皺を寄せた後、大きなため息をついた。


「なるほど。君が今までどんな扱いをされていたのか、大体わかった。おかげで安全のような、かえって危険のような……。まあ、何にしても牽制は必要だな」
 一人で呟きながらうなずくと、クロードはアニエスの手を取る。
 同時にキノコが生えるのは、もはやお約束だ。

 赤いラッパ型の傘は、ウスターケだ。
 クロードは波打つ傘の(ふち)を指でなぞると、ゆっくりと手袋からキノコをむしり取った。
 やっていることはキノコ狩りなのだが、妙に仕草が色っぽくて嫌になる。

「今日はもう帰ろうか。本当は俺が送りたいけれど……。今度、一緒に街に出掛けてくれる?」
「え? は、はい」
 契約ではできる限り一緒に過ごすと言っていたし、でかけるとも言っていたから、このことなのだろう。

 反射的に返事をしたのだが、それに対してクロードが満面の笑みを返してきたのがいけない。
 眩い笑顔のせいで、クロードの手袋にはオトメノカーサとヒイロターケが仲良く二本ずつ生えていた。



「おはよう、アニエス。でかけようか」

 扉を開けると、そこには花紺青の髪に陽光を浴びた美青年の姿があった。
 美青年が日の光を纏うと、更に眩しい。
 見慣れない簡素なシャツ姿ではあったが、高貴さは隠しきれておらず、本性がキノコの変態王子だとはとても思えない美しさだ。

「……おはようございます。クロード様」
「外出に備えて、軽装にしてくれたのか?」

 アニエスの格好を見たクロードが何やら嬉しそうに微笑んでいる。
 今日は深緑色のシンプルなワンピースだ。
 襟と袖に白いレースが入っているものの、ドレスと比べてしまえば軽装もいいところだろう。

「いえ。ドレスはないので、これが普段着です。……すみません。まさか、今日いらっしゃるとは思いませんでした」
 夜会に行ったのは昨夜で、今度出掛けようと言ったのも昨夜だ。
 まさか、翌朝一番に王子自ら屋敷を訊ねてくるとは夢にも思わないだろう。

「普段着? ……モーリスが言っていた、ドレスを全部処分したというのは、本当だったのか」
「処分ではなく、売却です。売れ残りは解体してスカートに仕立て直して、売りました」
「断るための方便だと思っていた。……本気で、平民に戻るつもりなのか?」
 笑顔が一転して硬い表情になると、まるでアニエスが悪い事をしているような気になってしまう。
 変態なのに麗しいというのは、実に困った話だ。

「クロード様との契約はちゃんと果たしますから、ご安心ください。それで、どこに出掛けるのですか?」
「街を一緒に歩いて見て回りたいんだ。昼には戻らないといけないから、あまり時間はとれないけれど」
「お忙しいのなら、後日にしては」

「駄目だ。公務があるから、今日を逃すと三日は来られない」
 そんなに忙しいなら休んだ方が良さそうだし、三日程度は大して変わらない気がする。
「馬車なら、少しは遠出もできたんだが……」
「昼に戻るのなら、無理でしょうね。……わかりました。支度するので、少しお待ちください」


 小さなバッグを斜めがけにしたアニエスが急いで戻ると、玄関ホールにはクロードと共にケヴィンの姿があった。
「ケヴィン、どうしたのですか?」
「殿下がいらしていると聞いたので、ご挨拶だよ。……困った姉ですが、よろしくお願いいたします、殿下」
 ケヴィンは頭を下げると、笑顔でアニエスに手を振る。

「いってらっしゃい、姉さん」
「え? はい、いってきます」
 クロードについて屋敷を出ると、そのまま門まで一緒に歩く。
 乗って来たであろう馬車は既におらず、それどころか誰一人姿は見えない。

「あの、クロード様。お一人だけですか? 護衛はいないのですか?」
 いくら王都の中で、クロード自身が騎士だからといって、王位継承権第二位の王子を一人で歩かせるものだろうか。

「俺は騎士だよ? 多少のことなら問題ない」
「いないのですか? ……なら、今日はやめましょう。何かあってはいけません」
 屋敷の敷地を出て数歩の所でアニエスが足を止めると、クロードも遅れて動きを止めた。

「せっかくのアニエスとのデートだぞ? ぞろぞろと護衛を連れていたら、無粋だろう?」
「何か起こるくらいならば、無粋で結構です。それから、デートじゃありません」
「アニエスは、俺と二人で出かけるのは嫌か?」

「良し悪しではなくて、安全面の話をしています。あなたは立場があるのですから、万が一のことをちゃんと考えるべきです。何かあってからでは遅いです」
 クロードは暫し言葉を失うと、肩を竦めて両手を上げた。


「わかった、正直に言う。少し離れてモーリスがついているし、他にも二人いる。……これで、安心した?」
 アニエスはうなずくが、そうなるとまた疑問が出てくる。
「なら、一緒に行けば良いではありませんか」

「何で、野郎に囲まれてアニエスとデートしなくちゃいけないんだ。大体、あんまりアニエスに近付けたくない」
 心底嫌そうに呟く様子は、麗しの王子というよりは近所の悪ガキという感じで、何となく親近感が湧いた。

 近付けたくないというのは恐らく、夜会の時にアニエスの髪に文句を言う男性を見たので、配慮してくれているのだろう。
 フィリップと違って、クロードはそういう心配りのできる人間だ。

「私なら、髪色に文句を言われるのには慣れていますから。大丈夫ですよ」
「違う、俺が心配しているのはそこじゃない。……本当に聞いた通りだな」
「え?」
「もう時間がもったいない。行くぞ」

 クロードはアニエスの手を握ると、すたすたと歩き始める。
 当然クロードの腕にはキノコが生えたが、すぐにむしり取ってポケットに入れてしまった。
 朱色の傘はニシキターケだと思うが、何せ素早いので確認できない。

 さすがはキノコの変態、流れるようなキノコあしらいだ。
 感心しながら歩くこと暫し。
 街の中心部まで来る頃には、手を握られるのにも慣れ、キノコも我慢できるようになっていた。




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【今日のキノコ】
ウスタケ(臼茸)
赤いラッパ型の傘を持つ毒キノコ。
消化器系の中毒を起こすが、特徴的な味はない……また、誰か食べたらしい。
アニエスを慰めるため一曲演奏しようとしたが、ラッパ型でもキノコなので音は出ないことに気付いた。

オトメノカサ(「大切な人だから」参照)
小さな乳白色の傘を持つ、恋バナ大好き野次馬キノコ。
乙女な気配を感じる限り、何度でも現れる。

ヒイロタケ(「もはや、ただのキノコです」参照)
半円球で扁平な、全身錆びついたサルノコシカケ的キノコ。
放って置くとどこまでも勝手に盛り上がるオトメノカサに、ブレーキをかける役割。

ニシキタケ(錦茸)
朱色の傘を持つキノコで、味は特にないが良い風味がある。
しかし虫がつきやすいので、なかなか食用にはなりづらいという、悲しいキノコ。
虫がつく前に食べて欲しいという気持ちのせいで、ちょっとせっかち。
「もういいから、さっさと出発しようよ」と言いたくて、生えてきた。