少し遅くなってしまった。


 ある蒸し暑い日の夜、男は仕事からようやく解放され、帰路についていた。


 明日からはお盆ということもあり、今日はこのまま田舎の実家に帰らなければならない。

 もう既に帰宅ラッシュを過ぎたらしい電車を乗り継ぎ、虫の音だけが響く無人駅を目指していた。


 田舎の電車は一時間に一本しか走らない。

 路線を変えるため、急いで駅から駅へと走るも、そこにはほんの十分ほど前に行ってしまったことを表した紙だけが残されていた。


「嘘だろ。この暑い中、あと一時間近くここで待たなきゃならねぇとか」


 走った努力が無駄であったように感じ、男は二人がけのベンチに勢いよく腰を下ろす。

 頭を掻き毟りながら首元のネクタイを緩めていると、ふと足元の影が動いた。

 それは徐々に影を濃くし、左側に伸びていく。男が顔を上げると、ぼんやりとした光を灯しながら、薄汚れた青い電車がホームに入ってきた。


 なんだ、この時間にもあったのかと、男は何の気なしに電車に乗り込む。

 ギギ、と古めかしい音を立てて開いた扉の向こうは、今にも抜けそうなほど古びた床板と、剥き出しになったオレンジ色の電球があった。

 さらに一歩踏み込むも、クーラーがついている様子もないのに、やけに肌寒い。

 田舎の電車はどこかで使われなくなった車両を再び使用することがあるため、そのせいだと男は自分に言い聞かせる。

 だが、あまりに気味の悪い空間に、思わず身震いをした。


 電車は無情にも動き出す。仕方なく男は椅子に座ろうと客席へ繋がる扉を開けると、すぐ目の前に、セーラー服を着た一人の少女が座っていた。


 なんだ、人がいるじゃないかと安心した男は別の席に腰を下ろそうとする。


 すると、誰かが腕を引っ張った。

 あの少女であった。

 そのか細い腕からは想像もできないほど強い力で引かれた男は、頭からひっくり返るようにその場に倒れる。

 驚いて声も出ない男の顔を覗き込むように、少女はにんまりと笑いかけた。


「来てくれてありがとう」


 倒れた男から逆さに見える、少女の嬉しそうで不気味な顔。

 言葉の意味もわからず戸惑う男が起き上がろうとすると、目の前に赤い噴水が上がったように見えた。

 少女の微笑みに、ドロドロとした真紅が飛沫として点々と装飾され、滴り落ちる。


「一緒に遊ぼう」


 ずぼりと抜かれた少女の手は、それ以上に真っ赤な液体で染まっていた。


 そこで初めて、男は胸の辺りに激痛を感じる。


 視界が霞み始めた。

 少女の濁った薄気味悪い笑い声だけが、鼓膜に張り付いて離れない。



 夏の夜、七時十二分の出来事であった。




【完】