妻を失ったカルツィ伯爵の邸を、古くからの友人であるセフィル伯爵は息子のステファンを連れて訪れた。

「よく来てくれたね。ステファン君も、アリシアとの婚約を受けてくれてありがとう」

「こんにちは。アリシアは部屋にいますか?」

「ああ、最近は具合が優れないと言ってベッドから出てこないんだ。困った子だよ」

「僕はアリシアに挨拶してきますね」

 ステファンは勝手の知った邸に入ると、まっすぐにアリシアの部屋へと歩いていった。

「すまない、エーリク。妻を失ってから良くしてくれたうえに、娘の婚約話まで引き受けてくれて」

「フラン、君と僕の仲じゃないか。これまでも困ったときは助け合ってきただろう?」

「だが、ステファン君の同世代には第一王女殿下や公爵家のご令嬢もいたというのに――」

「はは。一つ年上にはキルヤ公爵のご子息がいるのだから、殿下のお相手は彼が最有力候補だろう。それにステファンはアリシアを気に入っている。いつも遊ぶときは二人で手を繋いでいたじゃないか。アリシアとの婚約話を聞いたとき、あの子の喜びようったらなかった。気にする必要はないよ」

 少しやつれたフランが、これ以上心労を溜め込まないようエーリクは努めて明るく振る舞った。




 ステファンは、アリシアの部屋の前まで辿り着くと、深呼吸して気持ちを落ち着かせた。
 先週もその前も。訪れた部屋の中では、表情暗く本を読み続けるアリシアの姿があった。

 母親を亡くす前は、ステファンが来ればパタパタと駆け寄ってきて笑顔で挨拶し、手を繋ぎたがったアリシア。
 兄弟は兄しかいないステファンは、彼女のことを妹のように可愛がっていた。

 けれど母親を亡くしてからは、その瞳は虚ろで笑顔は一度も見ていない。
 彼女の悲しみは深く、一度父親に無理やりに外に連れ出されたとき、過呼吸で倒れてしまったと聞かされていた。

 とめどなく溢れる悲しみから逃げるように、アリシアは本の世界に入り浸っているのだ。

(でも、きっとコレなら、アリシアの興味を惹くことができるはずだ)

 アリシアの好んで読んでいる本のタイトルを聞き出して、どのヒーローが好きなのかを、やっと聞くことができた。
 彼女はいま、精悍な顔立ちの騎士に夢中だ。そして今日のステファンは騎士服に練習用の剣を帯剣し、髪もセットして出来る限りの演出を用意してきたのだ。

 ――コンコン

 ノックをしても、いつも通りに返事は無い。
 少しだけ扉を開けて中の様子を確かめると、アリシアはベッドの上で読書中であった。

「こんにちは、アリシア。ごきげんはいかが?」

 声をかけると、アリシアが本から目を外して扉の前に立つステファンを見やる。
 いつもなら直ぐに逸らされる視線は、今日は時間が止まったかのようにステファンに釘付けになった。

 アリシアの目が、徐々に大きく見開かれる。
 頬がばら色に染まり、潤んで蕩けるような瞳は、まるで恋に落ちるヒロインのようであった。

「――嘘みたい。オスカー様が本の世界から出てきたみたいだわ」

 ベッドから、転がり落ちるように這い出てきたアリシアは、ステファンの側まで駆け寄ると感嘆の声を上げながら興奮した。

 喜ぶアリシアの目の前に一輪の薔薇が差し出される。
 ステファンはこの日のために練習した物語のセリフで、本の世界を演じた。

「――『今日は庭の薔薇が美しくて、一本だけ手折って参りました。受け取っていただけますか?』」

「す、すごいわ――『嬉しいです、騎士様。すてきな薔薇ですね』」

 ヒロインのセリフを口にしたアリシアは、満面の笑みでステファンに飛びついたのだった。



 ――これが、はじまり