「……ただいま」


 ガチャリ、と音を立ててドアを開く。返事がないのにはもう慣れた。普通の家庭よりも幾分か綺麗で大きな家に住んでいるのは知っているけれど、ここには普通の家にあるものが何もない。

 例えば、愛情。例えば、自分の居場所。

 見慣れない靴があるのに気づいて悪寒がした。高そうな大きなローファーだ。また靴を変えたのか。

 ……お父さん、帰ってきてるんだ。胸がざわついて、息が上手くできなくなる。

 リビングまでの廊下を歩きながら、段々空気を吸うのが難しくなってくる。それは、リビングに近づくにつれて大きくなる両親の話声のせいだろう。

 案の定聞こえてきたのは、言い争っている男女の声だ。私の、お母さんとお父さんの声。


「あなたが悪いんでしょう?!全然帰ってもこなくて!」

「俺だって仕事があるんだっ!
だいたいな、お前はいつもそうやって……!」


 物音をたてないように、リビングの横を見て見ぬフリをして通り過ぎ、いつものように階段をかけあがって自分の部屋に入る。扉の開け閉めの音がしないように、細心の注意を払って。

 自分の部屋に着いた瞬間、ほっと胸をなでおろした。そこでやっと、自分が息を止めていたことに気がつく。

 2階まで、2人の大きな声は聞こえる。顔を合わせればいつもこうだ。お父さんは家にあまり帰ってこないから、久しぶりにこんなに冷や汗をかいた。