2023年 6月


「お前も行きたいの? なら連れてってあげる」


 雨の机の上に置いてあったはずの赤い傘が、玄関でこっそりと待っていた。
 世の中には不思議なことがある。立体映像の少女に触れることができたり、一度のガラガラくじで一等を当てたり、宝くじが当たったり、スロットのベルが当たると言われて本当に当たったりね。だから、些細なことではびっくりしなくなるものだ。
 今日は……あの子へ会いに行こう。
 誰もいないはずのリビングへ、玄関から私は声を掛ける。


「行ってきます」


 そしてパタンと扉を締めるのだ。
 マンションから駅へ、電車を乗り継いで新幹線、暗くなれば一泊。そしてまた歩いて、懐かしい場所へと向かう。
 歩いて、歩いて、歩き尽くして。ようやく辿り着いた。
 大きな屋敷、もう人の気配はなくて誰も住んでいないのだろう。表札には宮之城と書かれてあり、私は錆びついた鉄の門を開けると中へ入る。
 お庭は荒れ果てているけど、左の花壇には小さな青い花が多く咲いていた。


「勿忘草。私を忘れないで……だったね?」


 そして右の花壇へ目を向ける。
 もうすぐ咲くであろう赤い花。まだここで私は見たことがないけど、咲けば恐らく綺麗なのだろう。


「彼岸花、再会……だよ」


 私はあの子が大事にしていた彼岸花によく似た傘を広げる。
 その瞬間、ぽつぽつと雨が降り注いできた。辺りにはザーという音が響き渡り、私以外の誰もいないのだと告げている。昨日も雨だったというのに、よくもまあ飽きない。


 そして――
 今日もまた雨が降っている、これからしばらくは梅雨の季節だ。
 私は赤い傘を差したまま、ふと空を見上げた。
 鈍色の雲が空の全てを覆っている、これでは止む気配はない。しかし、私は少しだけ微笑んだ。こんな雨の日は、あの子を思い出すことができるから。


 屋敷の裏手に回ると、私の目的の場所がそこにあった。足元のぬかるみに気をつけながら、私はそこへと向かっていく。


「遅くなってごめんね……」


 ここに来れる日が来るまで、私の中で五年という歳月が流れてしまった。
 貴女はこんな冷たい石の下で、五年も眠っているの?
 いくら心で叫んだとしても悲しさは紛らわせない。二ヶ月前、奇跡といっていい程の物を残して、また貴女はいなくなってしまった。
 貴女は私に掛け替えのないものを残してくれた。今、私が生きているのは、貴女がいたからなんだよ。


「私、海外に行ったんだ……ミヤノジョウグループのことでね。結果は私の希望通りになったよ。医療道具はすべて手配してくれて、バックアップもしてくれるって。本当、祝福の力はどうなってんのさ……」


 少しだけ強い風が吹き、赤い傘が私の手から離れてしまう。
 ふわりと浮いた傘は芝生の上へと落下し、冷たい雨粒は私を少しずつ濡らしていく。


「もうすぐ、また海外へ発つよ。そうすれば今度は三年間戻ってこれない。またここへ来れなくなっちゃう……ううん、もしかしたら一生。見知らぬ地で死ねば、死体も戻ってくることなく終わりかも」


 もうチケットも買ってある。いろいろと経由したりはしなきゃいけないけど、三年は何があるかわからない地域で人々を救う。のたれ死んでも仕方ない場所、行く奴が悪いと言われる場所だ。


「正直怖いよ。でも、そうならないように、私は私なりに頑張るからね……」


 私は貴女の眠る、冷たい石の前に座り込む。
 返事をしてよ、最後に一回の奇跡を……私に、背中を押してほしい。


「……なんて、どんなに運が強くても死んだ人を生き返すことはできない。そんなことすればこの世界は死者で溢れ返るもんね。できなくて当たり前」


 冷たくなった体を立ち上げると、私は落ちていた赤い傘を拾う。
 大丈夫だよ、貴女との記憶はすべて私が覚えてる。
 思い出したんだから、そんな奇跡がなくても私は頑張っていけるよ。そして、全てが終わったらいつか、いつか……もう一度。


「もう一度、会いに行くね……雨……」


 冷たい石の下、貴女が眠る場所へ背を向けて、私は振り返らずに歩んでいく。
 雨が生きたかったこの世界で、私は雨の為に生き続ける。雨のように生きたいと願った人をこの眼の力で救いながら。
 あの世へと続く、三途川の【彼岸】を。死の淵で生きたいと願った人たちの【悲願】に変えて。私が願いを紡いでいくのだ。


 §


 激化するある紛争地域で不思議な眼を持つ一人の女性が、傷ついた人命を救う為に活動していた。硝煙の立ち込める戦場、あらゆる方向から銃弾が降り注ぐ中で彼女は駆け回り、幾度となく命の危険に晒されたという。
 しかし、彼女は的確なタイミングを見計らい銃弾を受けることも、爆撃を負うことなく最前線で助けを待つ人々を救っていった。


 敵、味方区別なく治療し奉仕する姿に、彼女はいつしか『現代のナイチンゲール』と呼ばれ、彼女が診た患者は、どんなに重篤な状態でも生きたいと望むのなら回復していった。
 しかし、彼女の力でも救うことのできなかった人間がいたのもまた事実。それは既に死亡が確認された患者と、助からないほどの致命傷を受けてしまった患者だ。
 それでも生きたいと願い、助かる見込みがあれば彼女は全力を尽くした。


 だが、どうあがいても無理なものはある。そんな致命傷を負ってしまった患者にできる唯一の方法は、安らかに逝かせること。生きたいと願う少年少女ら、兵士たちを、せめて苦しませずに送る。生きたいという願いを汲んで救うはずの、その逆のことさえも彼女はやって退けた。


 痛みと死の恐怖。死ぬ直前まで苦痛を味わい悲惨な姿で一生を終える人間は多かったが、彼女によって最期まで看取られた患者は痛みを忘れたように、安らかな寝顔だったという。


 生と死を司る戦場の天使『現代のナイチンゲール』。傷ついた人々はそんな彼女を愛して、彼女もまた傷ついた人たちを愛していた。
 それから数年。彼女の活動が功を奏したこともあり、ようやく紛争は終結へと向かうことになる。
 人々は喜んだ。だが、町に平和と秩序が戻って来た頃、彼女は人々の前から姿を消した。それは彼女が戦場へと現れてから、約三年という月日が流れた日のことだった。