2023年 5月 中旬


 私はスマホを覗きながら、今後の計画を立てることにした。
 私の誕生日に現れた雨が、消えてしまってから丸一ヶ月。どんなに取り繕っても悲しい気持ちは消えなくて、この一ヶ月はどうしようもできなかった。
 でも、彼女と話して、やることは決めていたんだ。雨がいなくなったこの最低な世界で私のやりたい……ううん、私にしかできない、私のやるべきこと。


『奏は運の力を過信しすぎている。確かに貴女はこの世界の誰より、そして追従を許さないほどの最高の運を持ち合わせているわ。その上、貴女の運は下がることを知らず、今もなお上がり続けている。……けれど、たとえそれでも、大丈夫だとしても私は……』
『雨。これは私が雨からもらったかけがえのない力。きっと、この世界の理を根本からねじ曲げてしまうほどの力だと思う。だからこそ、私がやるべきことだと思うの。医療の道に少なからず進んだ私には』
『どうして? どうして奏はそんな危険な道に――』


 やっぱり雨はなかなか頷いてはくれなかった。とはいえ、私は医師の免許を持っているわけじゃない。できても看護、それも首席だったわけじゃないし特別優秀だったわけでもない。
 でも、本当に私にしかできないことだったから、私を信じてくれたから、君は最後に頷いてくれたんだと思う。
 雨に教わった化粧をして、雨みたいに伸びた黒髪を整える。鏡にはアイラインを引いた眼がキラリと金色に輝き、祝福の眼は健在だということを示していた。
 それから一呼吸、私は一人の女の名前を口に出す。


「第一に、あやかの力が必要ね」


 よし、と一声。共にダイニングテーブルから立ち上がる。
 スマホの待ち受け画面に映るのは赤い眼と金色の眼を持った二人の笑顔の写真。その画像を一瞥し暗転させると、カバンへと押し込んだ。
 誰もいないリビング。そこを後にして玄関へ向かう。そして一度振り向いて、心の中で一言。


 行ってくるね、雨。
 行ってらっしゃい、奏。


 そんなやり取りを思い出の中で行うのだ。
 さぁ、行こう。私がやるべきことを全て終わらせないと――


 §


 相も変わらない病院。
 私はあやかの病室に行く前に、ある二人の病室へと赴いていた。私に危害を加えたせいで引き起こされた事故、私の知らない場所でそんな目に合い、眠ってしまったままの二人の女。
 かつて、あやかの取り巻きであった子たちだ。


「もう十分。本来ならもっと早く起こしてあげてもよかったんだけどね」


 私は順にその子たちの顔へと手をかざすと、本来の目的の為にあやかの病室へと向かうことにした。
 白い廊下に私の足音が響き、忙しそうにしている看護師の人たちとすれ違っていく。
 見慣れた病室の前へ立ち、引き戸を開くと気づいた彼女は私と向き合うことになる。


「奏……か」


 殺そうとする気迫もなく、文字通りこの女は私に生かされている感じだ。


「今日も殺せばいい?」


 いつも通りの会話。私を殺せないとわかっていても、言うのは大変よくできている。しかし、私はもう死ぬわけにはいかないから。
 雨が望んだように、雨が生きたかった世界で私はこれからも生きていく。この最低な世界で生きていかなくちゃならない。
 生きていく。その為に私はやるべきことを考え、雨に打ち明けた。雨が消えるその時まで、ずっと、ずっと話したのだ。
 それに必要なのが私の目の前にいる、既に生きてないも同然のこの女。私はさっきの言葉に首を左右に振る。


「あやか、お願いがあるの」
「あたしに……?」


 コクリと頷く。私の知る限り、あやかの後ろには何か大きな会社がついているはず。多分、この社会においてそれなりの影響力がある会社だろう。私の運の影響もあるだろうけど、雨を殺したというのをもみ消しにするくらいの力があるほどの。
 正直、そんなところに頼むなど気が進むはずがない。こいつに頼まなくとも、時間さえあれば運が解決してくれるのはわかっている。
 だけど、時間は有限。手っ取り早く話をつけるなら、こいつの力を使うに越したことはないのだ。私が望む、例の企業と話をつけるには……。


「ミヤノジョウグループに話の申し入れをしたいの。あやかの親の力なら、どうにかできるでしょ?」


 突拍子もない言葉が私の口から出たことであやかは目を丸くする。私の目的を達成するためには、この企業がちょうどいい相手。
 しかし、一般人ではまず相手にされない。けど、一企業からなら? それも大きな企業からだとすれば、それなりのところへ話が通るはずだと踏んでの行動。


「ミヤノジョウ? あの大企業に何の……」
「できるの? できないの?」


 話を畳み掛ける、できないなんてことは言わせない。
 あやかは少しだけ、困ったような顔をしていたがすぐに頷いた。


「……あたしが取り次ぐ。それで償えるようなものじゃないだろうけど、奏の為になんでもするつもり」


 まさか、あやかにそう言われる日が来るとは思ってなかったけど。こいつも少しは悪いと思っている気持ちがあるんだと解釈しておく。


「それで、何をするつもりなの? ミヤノジョウって言ったら、世界の一、二を争うトップ企業。やれる限りはやるけど……取り次いだところで奏個人ができることなんて高が知れてる」
「うん、確かに個人だったらそう。でも、私には切り札がある。それで私の後ろ盾になってもらうつもり、たとえ脅してでも」


 ニコリと笑う私にあやかはゾッとしたような顔をしていた。別にあんたに危害を加えようってわけじゃないんだけどね。


 雨から渡されたミヤノジョウグループの持つ、トップシークレットの情報。人の思考、欲しいものを読み取るという情報を全世界にばらまけば、ミヤノジョウグループの信用は地に落ちることだろう。
 どんなものであれ、思考を読み取るというのは危険なことに使われる可能性だってある。雨の話では欲しいものを読み取るに特化しているだけでそれ以外には使えないらしいけど、企業側がそう言ったところで信じてくれる人がいるだろうか?
 けれど、それが簡単にいくはずもないことはわかっている。それこそ個人である私が証拠もなしに発言するだけなら、あやかの言う通り高が知れているだろう。


 だけど、それは証拠がない場合だったらの話。
 私の手札はその情報となる焼けただれた記憶装置と、雨が立体映像として現れる前にハッキングされ脳波を読み取る機能がむき出しとなったホームシアター、再生機。


 記憶装置には雨の意識となる根幹の情報は失われてしまったけど、特殊な回路や脳波を読み取るプログラムは残っているらしい。そして元々、その回路を作ったのはミヤノジョウグループの人間だ。
 物的証拠さえあれば、脅すことも十分に可能なはず。
 不確定要素があるとすれば二つの切り札の『中身』に関して、ほとんどちんぷんかんぷんだということ。私は研究員でもなければ、機械に詳しいわけでもない。


 そこは雨が教えてくれた情報を信じる。だから、私個人じゃない、雨と私で二人だ。
 必要なのは交渉をするための架け橋、場にさえ着いてしまえば話は別。どんなに言葉巧みな人が相手だろうが、乏しい私の話術でも運なら……私の運なら乗り切れる。
 そう、私の力が圧倒的に足りなかろうが、相手の自爆を狙えばいいだけなんだから。


 くるりと背を向けると、あやかに告げる。


「あやか。雨はね、雨は……あやかを許してもいいって言ってたよ」
「……え?」


 両手をギュッと握りしめ、ギリッと音が出そうなくらい歯を噛みしめる。雨は確かにそう言っていた、私の整理がついていたら許してもいいと。


「多分……私の中で整理はついてきてしまってる。あやかが私に謝って、本当に悪いと思ってくれて。雨がもういなくなって、すべてが終わってしまったから」


 だから、許そうなんて話じゃない。雨が私に言ったように、こいつを許そうなんて言えない。思えない。


「雨は死んでもなお、そう言っていたの。私が生きていて、私の整理がついたなら許してあげてもいいかもって……でも、私は許すことなんてできない。許さない、一生……一生!」


 肩が震えてる、それは怒りで? それとも悲しみで? 
 わからない。わからないからその震えを止める為、抱きしめるように両肩を掴む。


「私はね……どんなに上手く隠せようが、どんなに取り繕おうが、私には人の背から伸びる悪意の塊っていうのが見える。仲のいい友達でも、多少は見えてしまうの。誰もが心の裏側を持ってるから仕方ない、妬む心は誰にでもあるから」


 それはあんなによくしてくれるルリにも、私に告白してくれた宮城くんにも見えていた。
 外を歩けば、誰もが悪魔のようなものを背に抱えている。そこら中、夜のように真っ暗なんだ。


「だけど、今のあやかにはそれがまったくって言うほど見えない。もうあやかには、そういう風なことをする気力すらないだけかもしれない。だからさ、今回のことが終われば……終わったら……」


 言ってしまう日が来る。けど、これは私の呪いだ。この女に祝福を渡すことなんて、ない。


「……まっとうに生きて、雨を殺した罪を胸に秘めて。その過程で貴女の背に巨大で黒い感情が現れる日が来たら、地獄の苦しみを味わって死ぬの……それまでは生きて」


 それが私に言える精一杯の言葉だった。
 しばらくの沈黙、あやかは何を言おうかと考えてるのだろう。少しだけ言いかけては、戸惑ってるような空気の流れを感じる。振り向けば、もっと詳しくわかるのに。
 それでも私は背を向けたまま、彼女の言葉を待ち、そしてようやく口を開いてくれた。


「奏は、それでいいの? 奏はあたしを殺したいほど憎んでるんでしょ……それなら、ここで――」
「あの日、雨じゃなくて私が死んでいたら……あやかはこの世のすべての苦痛と、それでもなお、死ねない苦しみを味わっていたと思うよ」


 私はあやかに向き直ると、笑顔を返す。


「だって、そうなってたら……死んだ私も生きてた雨も貴女を許したりしなかったんだから」


 静かな病室に響き渡る私の冷たい声。これは脅しなんかじゃなく本当にそうなるだろうと、私はわかっていた。


「私はね、雨ほど……怖くないんだよ?」


 青ざめるあやかの顔。
 私は雨のように本当の意味で怖いわけではない。
 もう、ここにいる用事もなくなった。最後に二人のことを告げて、次に行こう。


「あやかの取り巻きだった二人も、まもなく目を覚ますはずだから……あやかが面倒見てあげてね?」
「あの子らを目覚めさせたっていうの? もう目を覚まさないかもって言われてたのに」
「それはあやかも、だったんだよ?」


 私はニコリと笑うとそれだけを言い残し、病室を、そしてこの病院を後にした。