次に引き起こされたのは混乱だった。
 どうして雨がここにいるの? これは夢? それとも私は死んじゃったの? そんな感情が一気に頭の中へと駆け巡っていく。
 でも、そんなことはどうだっていい。私は立ち上がると、雨に触れようと手を伸ばした。
 しかし、私の手は雨を突き抜け、空気を掴むことになる。


「奏は死んでもいないし、夢を見ているわけでもないわ」


 そういって雨はホームシアターの方へと指を向けた。つまり、雨は立体映像なだけであってあのゲームと特に変わりはないのだ。
 触れることもできないし、返答することもない。
 返答することもない……?


「雨……もしかして、私の声は届いてるの……?」
「ええ、聞こえているわ。奏は変わったわね、まるで私みたいに髪を伸ばして……」


 聞こえている。


「嘘だ……そんなの、聞こえるわけがない……ただ、記憶された言葉を言ってるだけ――」
「奏……」
「そうだよ! たまたま私の返答に合っただけで、そんなのはあり得るわけがない。そんなのおかしいもん!」


 信じられない、これは私を陥れるための嘘で喜ばせて落とす。誰が仕組んだのか知らないけど、こんなのがまかり通るわけがない。


「奏」
「夢だ、こんなの……あり得ない。雨がここにいるはずがないんだから……夢……」


 壊れた人形のように繰り返し言葉を零していく。そうだ、夢なんだ……都合のいい夢、夢なん――


「奏っ!」
「……!」


 大きな声と共に、私は考えることを打ち切った。声の主である彼女の顔を見ると、無表情とは言い難い、少しだけ憂いを帯びたような顔で。


「ごめんなさい、ずっと……ずっと辛かったわね……」


 ああ、雨だ。本当に雨なんだ。嘘じゃない、本当に、雨……なんだ。


「あ……め……うっ、う……あめぇ……うううっっ……」


 辛かった、ずっと生きていくのが辛くて、ようやく本当の意味で私は泣いてしまった。子どものように大きな声で。
 雨はそんな私を泣き止むまで、ずっと待っていてくれた。


 §


 私は白いソファに寝そべりながら、隣に座っている雨を見上げ話していた。
 立体映像で映し出された雨は、事故当時の記憶を持ち合わせてるわけじゃないみたい。
 例の記憶装置には事故にあった日、私を迎えに行く直前、家を出る前の記憶と人格が転写されているのだという。映し出されている姿は私の思い出から補われてるんだとか、脳波で思い出を読み取るとか本当にそんな機能があるなんて。


 専門的で詳しいことはわからないけど、ミヤノジョウグループがどうして巨大企業に発展したのかはそういうところにあるらしい。
 昔、雨と遊園地でやった立体ゲームや、他の物にもそれは組み込まれていると聞かされた。つまり、知らず知らずの内に人々はモルモットにされていて調査されている。どういう風な物を望み、その中で需要のありそうな物を商品として売っていく。
 人の思考を読めるのなら、大企業になるのも頷ける。でも、最初からそれを作れたってわけじゃない。それを実現する為に、研究材料に使われたのが雨。対象となったのは祝福の眼が持つ、もう一つの力、人の心を読む能力だった。


「それがミヤノジョウグループの実態。幸い、人の思考を全て盗めるわけではなくて、どんなものを欲しがるかにしか特化できず研究は終わった。黒いけど人を想う点では一応健全ではあるわね」


 だから私がどうにかする必要はないようだ。そもそも雨と関わりがあるだけで、ミヤノジョウグループとは直接的な関わりはない。ただ雨がそういう研究材料にされていたのは、ちょっとだけムカつくけど。


「あれ……じゃあどうして私の脳波をキャッチして、雨の姿を復元できてるの……?」


 欲しいものにしか特化できなかったと雨は確かに言っていた。つまり、そういう情報はキャッチできないはずなんだけど。


「私はモルモットじゃないのよ? いくら親だろうが悪用されたりしたら困るもの、最低限の情報しか渡してないわ。その対価として技術を流用して、私が本来の力を使おうがそれは別に構わないでしょう?」
「雨、なんだかすごく悪い顔してる気がするんだけど……」


 雨は無表情ながら楽しそうにしていた。でも、こういう風なのができたのはミヤノジョウグループ関係者方々の血の滲む努力のおかげ。欲しいものを高い技術で作ってくれるというのなら、思考を盗ませモルモットとして使わされておいてあげてもいいだろう。


「ちょっと長い話になったわね。今度は奏のお話を聞かせて?」


 そう言われ、私はコクリと頷いた。
 そして話し始める。雨が亡くなった時のことと、雨がいなくなってからのことを。
 自分が死んだと聞かされた雨の気分はどうなんだろう? 雨は不思議と裏側が読めなくて、外だけで言うなら冷静な感じだった。元々予見していたからか、どうかはわからない。
 ただ、どうしてもこの話をすると、胸が苦しくなって痛む。
 私は断りを入れると次の話に移ることにした。


「雨……私、ずっと一人だったわけじゃないんだよ。雨がルリに言ってくれてたんでしょ? 私のことを見ていてって」
「桜田さん……守ってくれていたのね、良かったわ……」
「随分ツンケンしちゃったけどね。雨がいなくなって、私はすごく悪い子だったから。それでもルリは私を見捨てないでいてくれた……」
「今度、ちゃんとお礼しないといけないわね」
「雨がするの?」


 なんて意地悪を言うと、少しだけ悩んだような表情を見せてくれる。


「したいのは山々だけど、奏が代わりにってことになるわね」
「えぇ……? でも、そうだね。ルリには感謝しても、したりないかな」


 実はこの部屋へ誰かが立ち入ってしまうと、脳波が干渉してしまって雨の体が崩れる可能性があるらしいのだ。だから、ルリと雨を会わせたくても会わせることができない。


「あ、雨……ちょっとこれのことを聞いていい?」


 私は下瞼を指で下げると、金色の眼を雨へと見せてみた。


「それは祝福の眼……ね。まさか、奏にそんな変化が起きるとは思っても見なかった」
「やっぱり雨にも予測できてないことだったんだ」


 とはいえ、実際にこの眼の力を私は使えない。一番大切に思っているはずの雨を目の前にしても反応しないから。それは雨が立体映像で、本当はここにはいないからだろうか?


「使う予定はないけど、使うためにはどうしたらいいのかな? んーって力を込めれば使える?」
「まさか、そんな力技ではできないわ。私のだったら相手のことを思う気持ち……かしらね」
「相手を思う気持ち……か」


 今の私にはそれが欠けているのかな? だから発動できないのか、理由まではわからない。
 私と雨の瞳とでは発動の条件は同じような気がしていたのに、実は違ったりするのかも。
 私は相手のことを思う気持ちとして、一人の女のことが頭に浮かんだ。


「ねぇ、雨はあやかのことをどう思ってる?」


 聞いても仕方ないことなのかもしれないけど、雨はどう思ってるのか聞いてみたかった。
 私はあの女に怒りしか持っていないはず。ただ、ごめんと謝られた時だけはその気持ちが私の中から消えてしまった気がした。だから、今は釈然としない感じ。


「そうね……奏をいじめていた張本人。簡単に許せる相手ではないのは明白だけど……」


 チラリと視線を落とす雨、私の瞳と雨の瞳が交わる。


「奏の中で、整理がついたのだったとしたら……許してあげるのもいいかもしれない」
「え……そんな、雨はあいつに殺されたんだよ? 殺した張本人なんだよ⁉ 私は謝られても許せないし、整理なんてできるはずが……」
「私の意見よ。許すか許さないかは奏次第。彼女は一生許されないことをしたと思う。けど、私は奏が生きていただけで十分だから……」
「甘いよ……雨は甘すぎる。雨はそうやって私ばっかり! 私だって雨のことがすっごく大事だったんだよ⁉ もし、私が死んで雨が生きていたらどう思う⁉ それでも許せるの⁉」


 その言葉に雨はハッとしたのか、考え込むまでもなく言葉を返してくれた。


「そう……ね。許すことはできないわね……」
「それだけじゃない。もしも、私が雨の立場……立体映像で現れることがあったとしても、許さないって、きっとそう言ってる! だって……だって!」


 想いが弾ける。あの頃の記憶が蘇って、胸を苦しめていく。


「だって私、雨と一緒にいる日々が幸せだったんだもん! 割り切ったりできないよ……」


 私の悲痛な言葉に雨は顔を背ける。


「ごめんなさい……私もそうだった。幸せだったわ」


 だった、そう、お互いに幸せだったの。でも、それは過去の話。もう戻ることができない過去の話なんだ。


「……私、わかんないんだよ! 日に日にやつれてくあいつの姿を見て、苦しんでる姿を見て、喜んだりできないの! 雨がそんなこと望んでるわけないってわかってるから! 私だって好きでしてるわけじゃない! でも、許せないの! 許すことができないの! 残された方は雨が言うように簡単じゃないの!」


「奏……」
「だから、何度も何度も私を殺してってお願いした……けど、何度襲われても殺されることはなかった。何度だって死んでしまおうって思って、どんな自殺方法も試して回った。それもことごとく空回り、私は雨の元へ行けないまま、五年が経とうとしてるんだよ」


 残されてしまった私がどれだけ辛い思いをしてきたか、全てを吐き出す勢いで喋り尽くす。
 雨は目を少しだけ揺らし、唇を震わせていた。


「奏は……」


 ああ、雨にこんなの言わせるつもりなかったのに。なんて言われるか、わかってしまう。
 でも、私にはその言葉を止められなかった。


「奏は、私を恨んでる……?」


 あの動画の時とは比べ物にならないくらいの感情をはらんでいる。雨は明らかに私の次の言葉に怯えていた。
 でも、これは雨への仕返し、許して……雨。


「……恨んでるよ。でも、そんなこと言うくらいなら、私も連れてってよ……雨のところに……」


 雨は私の流れる涙を拭き取ろうと手を伸ばしてくれる。が、拭き取られることはなかった。私の体が光の行方を邪魔し、屈折するのだ。


「連れていったら、奏は私を許してくれる……?」


 それはそのままの意味だろう。雨にそんな力があるというのなら、連れていってほしい。こんな世界から消えてしまえれば、私は楽になれる。
 でも、私はまだ雨に聞いてもらっていないことがあった。


「……私、まだ話してないことがあるの」
「……?」


 雨をこのまま傷つけたままでなんて、私が私を許せなくなってしまう。雨が私の話を聞いて、少しでも喜んでくれるというのなら話を続けないと。


「雨……こんなね? こんな壊れてる私でも、心が死んでる私でも、一目惚れしたって言ってくれる男の子がいたの。好きだとは言われてないけど、なんでこんな私に一目惚れしたのかなって気になったの」


 そう、異性に告白を受けたことだ。こんなことを言うタイミングじゃないかもしれないけど、それは雨に聞いてもらいたいことだった。私の身に起こったことだから。
 雨はびっくりしたように、目を大きく開いて呟く。


「そんな……ことが……」
「うん……でも、私、その子のことほとんど知らないから首を振っちゃって。結果的にお断りしちゃった感じなんだけどね。驚いた……かな?」
「驚くも何も、青天の霹靂とはよく言ったものね……そんな子が奏の前に現れたなんて……」


 でも、やっぱり雨は浮かない顔のままだ。そりゃそうよね、あんなことを言った後だもん。だから、もう……意地悪するのはよそう。


「雨、ごめんね。恨んでるなんてこと、本当はないんだよ。雨と過ごした日々は本当に……本当に幸せだったんだから」
「っ……奏」


 雨と話せて、ちょっぴりといった恨みもなくなってしまったんだ。
 気がつくと、部屋が夕方へと移り変わっていた。雨と話していると、本当に時間が飛ぶように過ぎて行っちゃう。今日は一日中、雨と話していたんだね。


「日が落ちて来たね」
「……ええ」


 今度は雨のことについて聞く。
 難しい話じゃなくて、今度は雨について聞きたかったことを。たった一日では話し足りるわけがなく、私たちはそれからもずっとずっと話していた。