少しだけ首へと衝撃が走った後、ガシャリと音を立てて果物ナイフは床へと落ちていく。
 あーあ、これで雨の元へ行ける。そう、思っていたのに……。
 自分の首元に触れ、手のひらを見た。


「…………そう。もう貴女でも私を殺せないんだ」


 落胆の一言。あやかの細い手には、もうナイフを握る力すらない。
 ううん、本当はあるかもしれない。けど、もう一度、今度はちゃんと握らせて同じことをさせても、結果は変わらないだろう。
 これが私の運が定めた結果というのなら、もう彼女にも私を殺すことはできないんだから。
 ああもう、どうすればいいんだろう。どうしたら、私は死ねるんだろ。教えてよ、雨。


「うぐ……! はぁ、かっ、ふ……!」


 私に危害を加えた影響か、あやかの容態が変わっている。デメリットがなかろうが、私に危害を加えればそうなるのは当たり前。勝負の世界には勝者と敗者がいるように、強い運はより強い運に淘汰されるのが道理だ。
 もうこいつを生かしておく必要はない。死んでもらってもいいんだけど、死ねない私を差し置いて楽になられるのは嫌だ。
 死ねないってわかってても、何度だって試してやる。お前を使って、何度だって私を殺させてやる。


「また来るよ。死なないでね……私のお人形さん。そして今度こそは私のことを殺してね」


 あやかにそれだけ言い残すと私はこの部屋を出た。
 廊下を歩いていく。あんなに大声で叫んだというのに、誰にも気づかれてない。本当に運の力というのはおかしいくらいに自然の摂理に反している。
 でも、それだけじゃ思い通りにはならないこの世界はよくできてる。
 無表情へと落ち着いた私は、慌ててあの部屋に入っていく医師と看護師を尻目に病院を後にした。


 2022年 4月 中旬


 それから数日が経った。
 学校と家を往復する毎日を過ごしている。それは今までも同じこと、だけどあれから雨のことを強く、強く感じるようになった。あやかの影響だろう、心境にすごく変化が起こったみたい。
 学校から家に戻った私は雨の部屋の前に立ってドアノブへ手をかけようかと悩んで、やめての繰り返し。


「病んでるな、私……」


 この扉を潜れば会えるんじゃないか、そんなことを思ってしまうのだって今日が初めてじゃない。でも、会えないことは知っている。
 私はこの部屋をもう一度、潜ることはできるのかな。
 薄れ、かすれ、私の記憶から消えていく。ここにいた事しか思い出せなくなってしまう。だから、こうして忘れないようにこの部屋は閉じたままずっと残してるというのに。


「ごめんね、雨。私は弱いから、ずっとずっとダメなままだよ……。こんなに辛くて苦しくて痛いなら、殴られても癒える体の傷の方がマシ。心の傷の方が痛くて痛くて死んじゃいそうだよ」


 扉に触れ、泣き言を零す。でも、返事はないのは当たり前だった。
 そして今日も扉から離れると、白いソファの上で過ごす。自分の部屋にも戻らず、長く使ってきたソファは擦れや汚れでどうしても黒くなってきていた。
 彼女からもらった大きなカピバラのぬいぐるみも、中の綿がヘタり気味。それでも、毎日抱きしめ眠りにつく。


 もうすぐ自分の誕生日だというのも忘れ、雨のお墓参りにもいかない。頑張ってきた学校だって、死ぬための準備でしかない。
 本質はあやかを治療して、殺してもらう理由にしかならないのだ。
 自分で死ぬこともままならず、生きることを諦めている私は、殺してくれる可能性のあるあやかに依存するしかない。
 それは生きていると本当に言えるのだろうか?


 2022年 5月


 私は病院へ通うことになる。ある人物へ会うため、殺してもらうためだ。こいつは私の人形で、一度起こしたら目が覚めていたようだ。


「殺して。今度こそ、ここに突き立てて」
「お望みなら殺してやるよ……奏……!」


 殺せないの? いい加減殺してよ。


 2022年 6月


「今日何の日か知ってる? お前が雨を殺した日だよ。今日くらいは殺してくれないと困る」
「……殺せばいいんでしょ? やってやるよ」


 いつも口だけ、雨は殺せても私は殺せない。


 2022年 7月


「こんにちは、また来たよ」
「っ――!」


 カーテンの向こう側から、私を一突き。それでも殺せない。ちゃんと狙えよ、人形さん。


 2022年 8月


「炎天下で死のうとしても、死ねない。すぐ親切な誰かが日陰に連れて行って、ジュースを買ってくれる。それがお医者さんだったりするから余計質が悪い」
「……そんな話をするために来たの? さっさと死んでほしいんだけど」
「殺すのはお前の役目でしょ。毎回ナイフを買ってくる私の身にもなってほしい」


 でも、ある時から今度は急な刃こぼれや、先端が折れるようになっていた。そろそろまずいかもしれない。


 2022年 9月


「…………」
「…………」


 あやかも限界。私も限界。ナイフを受け取っては、私の首筋へと突き立てる毎日。それはいつしか当たり前の行動となっていたけど、本当に私は死ぬことを許されないんだ。
 どうしても邪魔が入ったり、折れたナイフがあやかの腕へと突き刺さることすらもあった。
 続ければ意図しないところでこいつを殺すことになる、それだけはどうしても阻止したかった。


「ねぇ……死ねない理由って、あんたが既に死んでるからじゃない?」
「どういうこと?」
「あたしが宮城を殺したとき、既にあんたの心は死んでた……だから死ねない……」


 ああ、そっか。そう……だったんだ。
 今も肉体だけが勝手に動き回って、精神は死んでいるんだ。だからもう、昔の精神と肉体が分離する錯覚も起きなくなっていた。
 あぁ、そう……なんだね。
 私は雨が死んだ日から、既に死んでいたんだ。


 2022年 12月 下旬


「――なで、奏! ねぇってば!」
「あっ……ごめん、ルリ、どうしたの?」
「はぁ……あんたってば、久々に会おうと思ったら年末しか空いてないとかどうなってんのよ」


 彩りの良いカクテルを飲みながら、ルリは怒っていた。私はごめんと一言。誰とも会いたくなかったのだ、あれからあやかの元にも行っていない。


「まぁ、私も独り身だから? 遊べる時には遊んでおきたいし、クリスマスくらいは寂しい者同士仲良くしましょうやー!」
「ルリ、酔ってるでしょ……」


 怒ってるかと思いきや、今度はきししと笑いながら機嫌が良さそうに振る舞う。
 だけど、なんでかまた怒り出した。


「酔ってないといられるかぁ! お客さんと従業員がねぇ、胸が小さいなどと噂するんよー……でね、うちはそういうお店じゃありませーんって笑って返すんだけど、毎回そんなセクハラまがいなことするから、ざっくりとお客さんの髪の毛いっちゃった……ヒクッ」
「そうなんだ……」


 美容院でセクハラってどんなシチュエーションなのとは思うけど、結構フレンドリーなお店なのね。そもそもルリは背は小さいけど、胸は小さいわけではない。どうせルリに聞かれそうになったところを、咄嗟の嘘で誤魔化したか何かだと思うけど。
 そういえば、ルリはあれから自分のお店を持ったらしい。かなり人気な店で、背の小さなルリが店長さんだとは思いにくいけど……それは偏見か。


「この髪型もいいじゃんとか言われてさぁ! 嫌がらせしたのに、喜んで帰るわけよ! セクハラしてくるのはおじさんだけって思ってたのに、若い人がそんなことするんよ? なんでかなぁ、なんでかなぁ?」


 おじさんだけっていうのは流石に偏見じゃないかな、私に習って偏見発言しなくてもいいんだよ……。ルリが可愛いからするのかもしれないけど、セクハラはご法度だ。良くない。


「あぁぁぁぁ……そうそうそう、奏って……かっこいい男の子と知り合いだったりするー? この前の……二ヶ月くらい前かなー? そのお客さんと高校はどこかだったーとか話をすることがあったんだけど」


 さっきの話はどうしたんだろう。自分だけが言いたいことばかりを言って纏わりついてくるのは辛い。


「でね、高校の話をしたら……奏の話が出てびっくり! 友達だったよーとは言っておいたけど、連絡先は教えなかったのら! 褒めるが良いぞー!」
「あ、うん……ありがとう」


 謎の敬礼をしてニコニコ笑っている。
 どこの誰か知らないけど、私のことを嗅ぎ回っている人間がいるということだろう。もしかしたら、祝福の眼関係かもしれない。この頃は所構わず運の力を使いすぎてるから……。


「でもぉ……知り合いだったら紹介してほしいなぁ。そろそろ彼氏欲しいからさぁ……」
「ルリなら引く手数多でしょ。美容院の店長なんだし」
「やー全然だよ! 全然! まぁでも、年下はちょっと難しいかなぁ……包容力のある人がいいし、あーでもあの子はなかなか良かったなぁ。ザ・男の子! って感じで……ねぇねぇ、奏、紹介してよぉ」
「あぁ……もう、知らないったら。まったくもう……」
「むむぅ……」


 警戒だけはしておこう。変なことに巻き込まれるのだけは勘弁だし、違うにしても色恋沙汰はわからない。アドバイスできることはないけど、変な男だけには引っかからないようにルリには言っておかないと。


「ぐぅ……むにゃ……」
「…………ちょっと、ルリ……お店で寝ないでよ。ごめんなさい、お会計お願いします」


 店員さんに告げると、酔いつぶれたルリに肩を貸しながらカウンター席を立った。
 私の様子が変だったから誘ってくれたんだよね? ありがと、ルリ。私が言えたセリフじゃないけど、ルリはきっと素敵な女性になるよ。
 今日は私が支払っておくかな、ルリに気を遣わせてるとこもあるし。そうして彼女の分も全額払うとバーを出て、夜の街へと私たちは消えていく。


 だが、後日、ルリは電話ですっごく申し訳なさそうにしていた。


「奏、ごめん! お金もちゃんと払うし、今度埋め合わせするから!」
「あんまり気にしないでいいから……じゃあ、また今度ヘアカットをお願いしようかな?」
「それ前にも約束した! お店持ったらしてあげるって言ってるのに、全然来ないじゃん!」


 覚えてるよ。ルリもそんな約束、覚えてくれてたんだね。


「そうだっけ……でも、それでいいよ。まだ髪切る予定ないから……」
「んぅ……奏は一度言うと聞かないとこあるし、まぁ……それでもいいんだけど……絶対よ?」
「うん、ありがと、それじゃまた」
「はーい。後、変なこと考えるんじゃないわよ?」


 鋭い、けどもういろいろと変なこと考えて、一段落ついた後だよ。だから、もう大丈夫だと思う。


「大丈夫だよ。何も考えてないし」
「それはそれで含みのある言い方ね……。まぁいいわ。それじゃ、また連絡する」
「うん、じゃあね」


 そこまで言うと、電話は切れる。
 カーテン越しに光が見える。


 ああ、また朝がやってきたんだ、憂鬱だなぁ……。


 もうすぐ卒業、結局どこに勤めるか決めてないまま、十二月になってしまった。
 時が経つのは早いなぁ。明日からどうしよう、久しぶりにあやかのところに行く? 得るものはもうないだろうけど。
 それとも家でゆっくりする? どっちにしても気分は沈む。


 なんで、私は生きてるんだろう。目標がないまま過ぎていく時間は本当に無駄に思えて、考えないようにしていても死にたくなる。
 こんな姿を見て、貴女はどう思う? 悲しんでる? それとも怒ってるかな? でも、私はどっちもやったよ、ずっと泣いたし怒った。


 私の未来は全然明るいものじゃなかったよ、生きているのに死んでいるんだから当たり前だよね。こんな死んでいる意識の中で、私はどうすればいいの。教えてよ、私がやるべきことを……。
 そして私は今日もソファの上で目を閉じる。眠ってしまおう、眠ってる間だけは嫌なことも何もかも忘れられるんだから。