数日も経たないうちに、雨の実家のお屋敷で葬儀が行われた。
弔いの儀は本当に簡素な物で、遺影写真すらもない。出席者は屋敷の管理を任されていた執事の総一朗さんと、私だけ。
雨の両親も姿を現したりはしなかった。
それは屋敷に残されてあった雨の遺書に、来るはずのないものを期待して、両親に死に顔を見られるのは嫌だと書いてあったからだ。それ以外に書かれていたのは本当に淡白なもので、祝福の眼についても書かれていなかった。
結果、雨の残した遺書の元、葬儀は最小限に留まっている。
それでも総一朗さんは雨の両親へと連絡したそうなのだが、返ってきた言葉は「そちらでことを進めてくれ」とのことだったらしい。
自分の子どもの最期すらも看取ってあげないなんて。何のために雨は産まれてきたの?
私は棺桶で眠る雨の姿を覗く。
好きだったと言われている青い花に囲まれ、彼女はその中で眠っていた。とても綺麗な寝顔で、本当に眠っているだけなんじゃないかと錯覚しそうになる。
私は雨のことを何も知らない。彼女が好きだったと言われた花の名も知らないまま、彼女と話す機会をあの女によって奪われてしまった。
あの女、あやかの方は一命を取り留めたらしい。
車は盗難車で、そもそも動けるような体じゃなかったみたい。私たちへの憎悪で動いていたのだろうか? もう目を覚ますかも怪しい。
「もう疲れたでしょ、総一朗さん。いいですよ、下がってくれて」
「……すみませぬ、老骨にはこれ以上のことができず――」
ずっと、眠っている雨の側にいる私に総一朗さんは良くしてくれた。
彼女が眠ってしまってから私に変化が起こったことがある。それは人の気持ちを感じることができるようになったことだ。
何を思ってるのか、何をしたいのかとか。その代わり、人が人じゃない何か別のものに見えるようになってしまったけど。
具体的に言うには難しい。目に映るのは普通の人間なのに、その後ろで何かが見え隠れするような……どす黒いなにかに見える時がある。
総一朗さんはもう限界だ。
それはきっと、雨も知っていた。彼女から何度も離れてくれて構わないと言われていたそうだったから。
「もうすぐ出棺となります。お嬢様のことがすべて終わった後、お暇を頂くことになっておりますゆえ……」
「ええ、雨の代わりに言わせてください。雨の為に、長い時間ありがとうございます」
「……勿体無いお言葉です」
総一朗さんも雨に対して恐怖心を持っていたみたい。
あの眼は普通の人間にはどことなく恐怖を感じるようで、デメリットに対する動物的勘みたいなものなのかも。私が雨の眼を見て恐怖を感じなかったのは、祝福の眼が使える対象者で副作用の対象にならないからか。
私は雨の方に向き直り、小さな青い花を手に取った。
去年の十二月にここを訪れた時、花壇には何も咲いていなかった。だけど今の季節、二つの花壇の一つだけが満開で花が咲いている。とても綺麗な青い花だ。
「お庭の花壇……去年の時は咲いてませんでしたけど、あの花は雨が好きだった花と同じ物ですか?」
「はい、勿忘草と呼ばれています」
「勿忘草……まだ咲いてない方は?」
「あちらは曼珠沙華、彼岸花でございます」
「彼岸花……雨はその花も好きだったんですか?」
「はい、どちらもお嬢様が幼子の頃、御自分で植えられたものです」
「……そう、ですか」
私、全然、雨のことを知らないんだ。
そこで話が途切れると、総一朗さんはお辞儀をして私の側から離れていく。
私は自分のことばかりだった。雨の正体が何なのかとか、去年ここへ来た時はそんなことばっかり考えていた。
本当はもっと、自分のことを聞いてほしかったんじゃないのか。雨は自分のことを自分から話すような子じゃない。私のことをわかってくれるそんな雨に甘えて、雨のことをちゃんと知ろうとしてなかった。
雨ともっと一緒にいられたなら、私は気づけたのかな? それとも馬鹿な私じゃ無理だった? 好きだった花の話をすることも、どうしてその二つの花が好きなのとか、他のことも、もっといっぱい雨のことを知ろうすることができたのかな。
「でも、言われないとわかんないよ……あの時の私じゃ。こうやって気づいた時にはもう、遅いよ……」
今となっては叶わない願い。私は眠る雨の横に勿忘草を戻すと、優しく頭を撫でた。
もう人の暖かさはない。氷のように冷たくて、こんな中で一人寂しく眠らなくてはいけないなんて。
どうして人は悲しむの、私はどうしてこんなに悲しいの。思い出が残っているから? 大好きだった人が亡くなったから?
どうして、どうしてと、そう聞き返しても雨は答えてくれない。
「雨……私、これからどうすればいいの……?」
しばらくの間その場で佇んでいると、出棺の準備に伴い、私たちは火葬場へと移動する。
かなり古い火葬場。どんなに天寿を全うしようが最期には火炙りにされてしまうなんて、どうかしてる。
でも、言いたいことはわかる。燃やしてしまったほうが後々の都合がいいから。動物に掘り返されたりするのは、私としても本意じゃない。雨の姿がそんな風に辱められるのは嫌。
奥へ足を進めると、華やかさと無骨さを兼ね備える鉄の扉が見えてきた。
火葬炉だ。
そこへ眠れる彼女を入れてしまえば、次に会うのは骨となった姿。それを考えるだけで私の胸は張り裂けそうになる。
火葬炉の間を後にすると、ある部屋に棺が置かれることとなった。告別室という部屋だそうだ。
ここが……雨と最後の別れをする部屋。
私は雨と二人で写真を撮ったことがない。遺影写真すらもない。ゲームセンターで撮ったことはあるが、それは雨が処理をしてしまった。
つまり、彼女の顔を見ることができるのはこれが最後。
覗き窓と呼ばれる顔だけが見える小窓が開けられると、さっきと変わらない綺麗な寝顔の雨の姿があった。
窓にはアクリルが張ってあり、もう雨に触れることは許されない。
ねぇ、雨……? 今、起きないと、もう何もかも遅くなっちゃうよ。ねぇ、起きてよ……雨。
私はすがりつくように、その箱に手を乗せた。
どれくらい時間が経っただろう。何分かな、何十分かな? 時間の感覚が狂ってるのか、彼女といる時だけはまるで飛ぶようにそれは過ぎていった。
「――そろそろお時間です」
職員の人がそう言ってきた。所詮、他人だと仕事で割り切ってやっているのは誰だってわかる。
困らせたいわけじゃない、それでも私は。
「待ってください。もう少しだけ……」
……離れたくない。雨がこんな姿になっても、私はずっと一緒にいたかった。
「奏様……」
「……もっと一緒にいたいの。雨と一緒に――」
「お嬢様はもう……」
「嫌だ、離して! 雨……!」
私は棺桶からその身を引き剥がされると、その箱はゆっくりと運ばれていく。
「悲しい気持ちはわかります。しかし、お気を強く持ってください」
「っ……く……」
私は脱力すると、総一朗さんと共に雨の元へと歩いていった。
鋼鉄製の扉。そこが開けられると、眠る雨の棺がセットされる。
「どうして……どうして、なの……どうして雨が……」
ゆっくりとその棺が、扉の中へと吸い込まれていく。
もう、止められない。もう、会えない。もう……奏って呼んでもらえない。
溢れる悲しさに私はその場に座り込み、口を押さえ、必死でその声を喉の奥へと押し返した。
「最後のボタンはどちらの方が……」
そう職員の人が私の方を向いて言う。
なに……? 私が火を入れろって言うの? 雨を私が燃やせって言うの⁉ 酷いよ……! それはあまりにも……残酷すぎる!
私の呼吸が乱れていく。心臓の音がうるさい、胸から吐き出される血流で目の前が赤くなっていきそうだ。
「奏様には酷でしょう。私がお嬢様を……」
「っ……っはぁ、はぁ……私が、私がやる。私がっ……」
そう、私がやらなきゃいけない。私が……私が、私が! 雨を終わらせてあげないといけない。
雨を終わらせないと、いけない?
覚束ない足取り、それでもゆっくりと私は着火のボタンの方へと近づいていく。
「ふぅ……ふぅ……!」
忌まわしいボタン。
これを押せば、雨を終わらせることになる。私が……終わらせることに……。
「雨が……焼かれるとこ、見れますか……」
私は静かにそういった。職員の人は困惑した様子で、首を横へと振る。
「……雨を死なせたのは私の罪だから、雨を……姿をこの目に焼き付けておきたいんです」
雨は言っていた、祝福の眼の力はずっと続くと。だったら叶うはずなんだ、雨が残してくれているのなら。
「……本当は禁じられているのですが――」
職員の人は悩みながらもそう言ってくれた、そして炉を見ることを約束してくれる。
後は私がこのボタンを押すだけ。
そう押すだけ。けれど、押せば、もう雨には――。
「はぁ……ふぅ、はぁ……」
乱れた呼吸を……整えていく、整えられるわけがないのは知ってる。けど、整えるんだ。
「くっ……ううっ……うぅぅぅ!」
ごめん、ごめんね、雨。大好きだった、ずっと大好きだったよ。だから、おやすみ。雨……。
私は震える唇を噛み締めながら、そっとそのボタンを、
押した――
直後、炉の中から唸るような音が聞こえ始める。消えない、この手からボタンを押した感覚が消えない。消えない内に、私は。
「見せて……雨の姿を……」
そう告げると、すぐに炉内を見ることができる火葬炉の裏手へと案内された。
表の華やかさとは違う、まるで工場のような場所。火葬炉一号機と名付けられたそこには紛れもなく雨が入れられた火葬炉の実体があった。
「こちらの窓から遺体を見ることができますが、火を入れられ十分が経過するまでは見ないほうが懸命です」
「…………どうして」
「ご遺体にはまだ皮膚が残っています。皮膚が燃えていく光景なんて見てしまえば……」
「いい……」
視認口と呼ばれる蓋で閉じられた横に長細い窓。忠告を無視し私はそこへ近づくと、諦めたのか職員さんはその蓋を開けてくれた。監視の中でなら、私のような一般人でも見ることが許されたこの場所。炎を使うここは多少なりとも熱を帯びていた。
無骨な鉄の檻と耐熱ガラスから伝わる汗ばむほどの熱。覗いた小さな窓の中、目に映るのは彼女の眼と同じ真っ赤な炉内。木でできた箱が段々と燃えていき、赤々と燃え盛る人影。
焼けただれ、もう誰かも判別できない彼女の姿を、それでも私はずっと、ずっと見続けていた。
あぁ……燃えていく、私の記憶が。
「ひっ……ぐ……雨……」
燃やされていく、雨との思い出が。
「あ……め……うっ……ぐぅ……ひっ……」
焦がされていく、私たちのすべてが。
「ふっ……う……ひぐ……あ……め……あめぇぇぇ……」
涙が溢れる、ずっと泣かないように我慢していた涙が零れてしまう。不鮮明な視界、両手で掬えそうな程の大粒の涙が流れても、私は彼女の姿をこの目に焼き付け続ける。
共に感情が焼き切れていくそんな感覚。泣けば泣くほど、叫べば叫ぶほど、私の感情が赤く焼き切れていく。
青白い炎が一瞬だけ彼女の体を包んで、燃やし尽くした後に。
私は自分の顔を無表情へと変え、感情を胸の中へ閉じ込めてしまった。
§
屋敷へと戻った私は荷物を整え、門の前へと出ると総一朗さんが最後の見送りをしてくれる。
「お嬢様のお墓は屋敷の裏手に作られる予定です」
「はい」
「奏様は立派でございました。奏様はお嬢様を終わらせたのではありません。お嬢様を送ってくださったのです」
「……」
総一朗さんの言葉が私の胸に微かに届く。その言葉にほんの少しだけ、救われたのかもしれない。心は軽くならないけど終わらせたんじゃない、送ったのだと、その言葉で少しだけ救われた気がしたのだ。
「それでは御達者で」
「はい」
彼女の骨壷を持った総一朗さんが私へと頭を下げる。本当は投げ出したいだろう、だけど彼女の最期だからか、無理をしているというのはわかった。
お墓が出来上がれば、この屋敷に戻ってくる人は誰もいない。
「雨のことをよろしくお願いします」
それだけを言うと、私は踵を返す。それからどうやって家まで帰ったか、覚えていない。
ただ帰り着いた時、ただいまと言っても出迎えてくれる子が現れなくて雨がいないということを実感する。
感情が出てこない、どうしてか悲しくなくて、もう涙も流れない。虚無感でポッカリと心に穴が空いたようだ。
「……目が痛い、泣きすぎたせいか」
電気もつけずに暗い部屋の中、あの日買った白いソファに体を預ける。
「……死にたいな、死にたい。死んだら雨と会えるかな?」
ずっと出なかった言葉がまた出てきてしまう。まるで一年前に逆戻りした気分だ。彼女がくれたキーホルダーのラッピーと、ソファに置いてあったぬいぐるみのカッピーを抱きしめる。
苦しさで心が軋む、痛む。壊れていく気がした。
ああ、このまま眠れば明日が来てしまう。けど、ここに雨はいない。死にたいよ、雨。
そうだ、明日は死のう、死んでしまおう。
そして、私は明日、死ぬことを決めたのだ。
弔いの儀は本当に簡素な物で、遺影写真すらもない。出席者は屋敷の管理を任されていた執事の総一朗さんと、私だけ。
雨の両親も姿を現したりはしなかった。
それは屋敷に残されてあった雨の遺書に、来るはずのないものを期待して、両親に死に顔を見られるのは嫌だと書いてあったからだ。それ以外に書かれていたのは本当に淡白なもので、祝福の眼についても書かれていなかった。
結果、雨の残した遺書の元、葬儀は最小限に留まっている。
それでも総一朗さんは雨の両親へと連絡したそうなのだが、返ってきた言葉は「そちらでことを進めてくれ」とのことだったらしい。
自分の子どもの最期すらも看取ってあげないなんて。何のために雨は産まれてきたの?
私は棺桶で眠る雨の姿を覗く。
好きだったと言われている青い花に囲まれ、彼女はその中で眠っていた。とても綺麗な寝顔で、本当に眠っているだけなんじゃないかと錯覚しそうになる。
私は雨のことを何も知らない。彼女が好きだったと言われた花の名も知らないまま、彼女と話す機会をあの女によって奪われてしまった。
あの女、あやかの方は一命を取り留めたらしい。
車は盗難車で、そもそも動けるような体じゃなかったみたい。私たちへの憎悪で動いていたのだろうか? もう目を覚ますかも怪しい。
「もう疲れたでしょ、総一朗さん。いいですよ、下がってくれて」
「……すみませぬ、老骨にはこれ以上のことができず――」
ずっと、眠っている雨の側にいる私に総一朗さんは良くしてくれた。
彼女が眠ってしまってから私に変化が起こったことがある。それは人の気持ちを感じることができるようになったことだ。
何を思ってるのか、何をしたいのかとか。その代わり、人が人じゃない何か別のものに見えるようになってしまったけど。
具体的に言うには難しい。目に映るのは普通の人間なのに、その後ろで何かが見え隠れするような……どす黒いなにかに見える時がある。
総一朗さんはもう限界だ。
それはきっと、雨も知っていた。彼女から何度も離れてくれて構わないと言われていたそうだったから。
「もうすぐ出棺となります。お嬢様のことがすべて終わった後、お暇を頂くことになっておりますゆえ……」
「ええ、雨の代わりに言わせてください。雨の為に、長い時間ありがとうございます」
「……勿体無いお言葉です」
総一朗さんも雨に対して恐怖心を持っていたみたい。
あの眼は普通の人間にはどことなく恐怖を感じるようで、デメリットに対する動物的勘みたいなものなのかも。私が雨の眼を見て恐怖を感じなかったのは、祝福の眼が使える対象者で副作用の対象にならないからか。
私は雨の方に向き直り、小さな青い花を手に取った。
去年の十二月にここを訪れた時、花壇には何も咲いていなかった。だけど今の季節、二つの花壇の一つだけが満開で花が咲いている。とても綺麗な青い花だ。
「お庭の花壇……去年の時は咲いてませんでしたけど、あの花は雨が好きだった花と同じ物ですか?」
「はい、勿忘草と呼ばれています」
「勿忘草……まだ咲いてない方は?」
「あちらは曼珠沙華、彼岸花でございます」
「彼岸花……雨はその花も好きだったんですか?」
「はい、どちらもお嬢様が幼子の頃、御自分で植えられたものです」
「……そう、ですか」
私、全然、雨のことを知らないんだ。
そこで話が途切れると、総一朗さんはお辞儀をして私の側から離れていく。
私は自分のことばかりだった。雨の正体が何なのかとか、去年ここへ来た時はそんなことばっかり考えていた。
本当はもっと、自分のことを聞いてほしかったんじゃないのか。雨は自分のことを自分から話すような子じゃない。私のことをわかってくれるそんな雨に甘えて、雨のことをちゃんと知ろうとしてなかった。
雨ともっと一緒にいられたなら、私は気づけたのかな? それとも馬鹿な私じゃ無理だった? 好きだった花の話をすることも、どうしてその二つの花が好きなのとか、他のことも、もっといっぱい雨のことを知ろうすることができたのかな。
「でも、言われないとわかんないよ……あの時の私じゃ。こうやって気づいた時にはもう、遅いよ……」
今となっては叶わない願い。私は眠る雨の横に勿忘草を戻すと、優しく頭を撫でた。
もう人の暖かさはない。氷のように冷たくて、こんな中で一人寂しく眠らなくてはいけないなんて。
どうして人は悲しむの、私はどうしてこんなに悲しいの。思い出が残っているから? 大好きだった人が亡くなったから?
どうして、どうしてと、そう聞き返しても雨は答えてくれない。
「雨……私、これからどうすればいいの……?」
しばらくの間その場で佇んでいると、出棺の準備に伴い、私たちは火葬場へと移動する。
かなり古い火葬場。どんなに天寿を全うしようが最期には火炙りにされてしまうなんて、どうかしてる。
でも、言いたいことはわかる。燃やしてしまったほうが後々の都合がいいから。動物に掘り返されたりするのは、私としても本意じゃない。雨の姿がそんな風に辱められるのは嫌。
奥へ足を進めると、華やかさと無骨さを兼ね備える鉄の扉が見えてきた。
火葬炉だ。
そこへ眠れる彼女を入れてしまえば、次に会うのは骨となった姿。それを考えるだけで私の胸は張り裂けそうになる。
火葬炉の間を後にすると、ある部屋に棺が置かれることとなった。告別室という部屋だそうだ。
ここが……雨と最後の別れをする部屋。
私は雨と二人で写真を撮ったことがない。遺影写真すらもない。ゲームセンターで撮ったことはあるが、それは雨が処理をしてしまった。
つまり、彼女の顔を見ることができるのはこれが最後。
覗き窓と呼ばれる顔だけが見える小窓が開けられると、さっきと変わらない綺麗な寝顔の雨の姿があった。
窓にはアクリルが張ってあり、もう雨に触れることは許されない。
ねぇ、雨……? 今、起きないと、もう何もかも遅くなっちゃうよ。ねぇ、起きてよ……雨。
私はすがりつくように、その箱に手を乗せた。
どれくらい時間が経っただろう。何分かな、何十分かな? 時間の感覚が狂ってるのか、彼女といる時だけはまるで飛ぶようにそれは過ぎていった。
「――そろそろお時間です」
職員の人がそう言ってきた。所詮、他人だと仕事で割り切ってやっているのは誰だってわかる。
困らせたいわけじゃない、それでも私は。
「待ってください。もう少しだけ……」
……離れたくない。雨がこんな姿になっても、私はずっと一緒にいたかった。
「奏様……」
「……もっと一緒にいたいの。雨と一緒に――」
「お嬢様はもう……」
「嫌だ、離して! 雨……!」
私は棺桶からその身を引き剥がされると、その箱はゆっくりと運ばれていく。
「悲しい気持ちはわかります。しかし、お気を強く持ってください」
「っ……く……」
私は脱力すると、総一朗さんと共に雨の元へと歩いていった。
鋼鉄製の扉。そこが開けられると、眠る雨の棺がセットされる。
「どうして……どうして、なの……どうして雨が……」
ゆっくりとその棺が、扉の中へと吸い込まれていく。
もう、止められない。もう、会えない。もう……奏って呼んでもらえない。
溢れる悲しさに私はその場に座り込み、口を押さえ、必死でその声を喉の奥へと押し返した。
「最後のボタンはどちらの方が……」
そう職員の人が私の方を向いて言う。
なに……? 私が火を入れろって言うの? 雨を私が燃やせって言うの⁉ 酷いよ……! それはあまりにも……残酷すぎる!
私の呼吸が乱れていく。心臓の音がうるさい、胸から吐き出される血流で目の前が赤くなっていきそうだ。
「奏様には酷でしょう。私がお嬢様を……」
「っ……っはぁ、はぁ……私が、私がやる。私がっ……」
そう、私がやらなきゃいけない。私が……私が、私が! 雨を終わらせてあげないといけない。
雨を終わらせないと、いけない?
覚束ない足取り、それでもゆっくりと私は着火のボタンの方へと近づいていく。
「ふぅ……ふぅ……!」
忌まわしいボタン。
これを押せば、雨を終わらせることになる。私が……終わらせることに……。
「雨が……焼かれるとこ、見れますか……」
私は静かにそういった。職員の人は困惑した様子で、首を横へと振る。
「……雨を死なせたのは私の罪だから、雨を……姿をこの目に焼き付けておきたいんです」
雨は言っていた、祝福の眼の力はずっと続くと。だったら叶うはずなんだ、雨が残してくれているのなら。
「……本当は禁じられているのですが――」
職員の人は悩みながらもそう言ってくれた、そして炉を見ることを約束してくれる。
後は私がこのボタンを押すだけ。
そう押すだけ。けれど、押せば、もう雨には――。
「はぁ……ふぅ、はぁ……」
乱れた呼吸を……整えていく、整えられるわけがないのは知ってる。けど、整えるんだ。
「くっ……ううっ……うぅぅぅ!」
ごめん、ごめんね、雨。大好きだった、ずっと大好きだったよ。だから、おやすみ。雨……。
私は震える唇を噛み締めながら、そっとそのボタンを、
押した――
直後、炉の中から唸るような音が聞こえ始める。消えない、この手からボタンを押した感覚が消えない。消えない内に、私は。
「見せて……雨の姿を……」
そう告げると、すぐに炉内を見ることができる火葬炉の裏手へと案内された。
表の華やかさとは違う、まるで工場のような場所。火葬炉一号機と名付けられたそこには紛れもなく雨が入れられた火葬炉の実体があった。
「こちらの窓から遺体を見ることができますが、火を入れられ十分が経過するまでは見ないほうが懸命です」
「…………どうして」
「ご遺体にはまだ皮膚が残っています。皮膚が燃えていく光景なんて見てしまえば……」
「いい……」
視認口と呼ばれる蓋で閉じられた横に長細い窓。忠告を無視し私はそこへ近づくと、諦めたのか職員さんはその蓋を開けてくれた。監視の中でなら、私のような一般人でも見ることが許されたこの場所。炎を使うここは多少なりとも熱を帯びていた。
無骨な鉄の檻と耐熱ガラスから伝わる汗ばむほどの熱。覗いた小さな窓の中、目に映るのは彼女の眼と同じ真っ赤な炉内。木でできた箱が段々と燃えていき、赤々と燃え盛る人影。
焼けただれ、もう誰かも判別できない彼女の姿を、それでも私はずっと、ずっと見続けていた。
あぁ……燃えていく、私の記憶が。
「ひっ……ぐ……雨……」
燃やされていく、雨との思い出が。
「あ……め……うっ……ぐぅ……ひっ……」
焦がされていく、私たちのすべてが。
「ふっ……う……ひぐ……あ……め……あめぇぇぇ……」
涙が溢れる、ずっと泣かないように我慢していた涙が零れてしまう。不鮮明な視界、両手で掬えそうな程の大粒の涙が流れても、私は彼女の姿をこの目に焼き付け続ける。
共に感情が焼き切れていくそんな感覚。泣けば泣くほど、叫べば叫ぶほど、私の感情が赤く焼き切れていく。
青白い炎が一瞬だけ彼女の体を包んで、燃やし尽くした後に。
私は自分の顔を無表情へと変え、感情を胸の中へ閉じ込めてしまった。
§
屋敷へと戻った私は荷物を整え、門の前へと出ると総一朗さんが最後の見送りをしてくれる。
「お嬢様のお墓は屋敷の裏手に作られる予定です」
「はい」
「奏様は立派でございました。奏様はお嬢様を終わらせたのではありません。お嬢様を送ってくださったのです」
「……」
総一朗さんの言葉が私の胸に微かに届く。その言葉にほんの少しだけ、救われたのかもしれない。心は軽くならないけど終わらせたんじゃない、送ったのだと、その言葉で少しだけ救われた気がしたのだ。
「それでは御達者で」
「はい」
彼女の骨壷を持った総一朗さんが私へと頭を下げる。本当は投げ出したいだろう、だけど彼女の最期だからか、無理をしているというのはわかった。
お墓が出来上がれば、この屋敷に戻ってくる人は誰もいない。
「雨のことをよろしくお願いします」
それだけを言うと、私は踵を返す。それからどうやって家まで帰ったか、覚えていない。
ただ帰り着いた時、ただいまと言っても出迎えてくれる子が現れなくて雨がいないということを実感する。
感情が出てこない、どうしてか悲しくなくて、もう涙も流れない。虚無感でポッカリと心に穴が空いたようだ。
「……目が痛い、泣きすぎたせいか」
電気もつけずに暗い部屋の中、あの日買った白いソファに体を預ける。
「……死にたいな、死にたい。死んだら雨と会えるかな?」
ずっと出なかった言葉がまた出てきてしまう。まるで一年前に逆戻りした気分だ。彼女がくれたキーホルダーのラッピーと、ソファに置いてあったぬいぐるみのカッピーを抱きしめる。
苦しさで心が軋む、痛む。壊れていく気がした。
ああ、このまま眠れば明日が来てしまう。けど、ここに雨はいない。死にたいよ、雨。
そうだ、明日は死のう、死んでしまおう。
そして、私は明日、死ぬことを決めたのだ。