「お世話になりました。今日はありがとうございます、夏美さん」
「いいのよ。よかったわね、雨ちゃん」


 ニコニコと笑う夏美さんに、雨は左手で横髪を耳へとかけた。
 その腕にはさっき私がプレゼントした、赤い小さな腕時計がつけられている。


「はい。それで奏の様子はどうでした? ご迷惑をかけたりとか」
「ちょっと、雨ー? それってどういう意味かなぁ?」
「うふふ、奏ちゃんは頑張ってくれていたわ」


 雨からは奏は人見知りが激しいから心配だった、とか言われたけど、そこは上手く夏美さんがフォローを入れてくれる。
 雨は挨拶を終えると、先に店外へと出ていく。


「あ、奏ちゃん、お給料の余りよ。ジュースを買えるほどしかないけれど……それとケーキを忘れないように」


 小銭の音が聞こえる封筒とケーキの箱を受け取る。


「わ、わ……すみません……あれ、冷たい?」
「そのままじゃダメになっちゃうから、冷蔵庫に入れておいたの、ついでに保冷剤も。ふふ!」
「あぅ……何から何まで、ありがとうございます!」
「ええ、それじゃあね! 雨ちゃんが待ってるわ!」
「はい、それでは!」


 私は手を軽く振って、店外へ足を進めた。
 すごい土砂降り。そんな中で雨は開いたままの傘をくるくると回し、振り返った。


「雨ー、お待たせ! なんだかご機嫌だねー」
「奏のプレゼントを三つも使えてるから、どうも気分が高揚してるみたい」


 赤い傘と赤いカチューシャ、そして赤いベルトの小さな腕時計。雨が本当に嬉しいのだと感じると、私も笑顔が零れてしまう。


「えへへ……誕生日プレゼント買ってよかったぁ。それじゃ帰ろっか!」
「ええ」


 私は雨の傘へと入れてもらい、バラバラという雨音を聞きながら二人で駅まで歩いていく。


「もうすぐ二十時ね」
「おやおやぁ……早速腕時計使ってくれてるー?」
「もう、茶化さないで。それで、今日の夕飯はどうしましょうか」


 腕時計を使ってくれてることについ嬉しくなってしまった。せっかく外に出ているのだから外食もいいかなと思う。


「あ……でもケーキがあるから無理かな。夏美さんが保冷剤を入れてくれたけど、そんな保たないかも」
「ケーキ……奏が食べるの?」
「違うよ⁉ あ、違うことはないけど、誕生日は一緒にケーキを食べるものなんだから!」
「そうなのね。てっきり、奏が食べるものだとばかり……」
「いくら甘い物好きな私でも一ホールのケーキは無理だって……太っちゃうよ」


 クスクスと笑う私。気がつけば、駅へと辿り着いていた。
 天井に設置されている画面に映る路線情報、線路の上に赤い罰印が浮かび上がる。


「人身事故……絶えないね」
「……そうね」


 また一人この世から消えていく人間。
 私も前までは死にたいと思っていた方の人間だった。自殺しようなんて思う人の理由はそれぞれで、私よりもきっと悲惨な思いをしてる人はいるはずだ。
 それでも生きようとしている人もいる。私は死ぬことが悪いとは言わない。逃げて、楽になりたいって気持ちは誰にでもあるから。


「でも、世界ではいろんなところで紛争とか……あるんだよね?」
「そうね、どこも争いは絶えないわ」


 雨は無表情の奥で難しい顔をする。
 もし、私なら……私の運なら、この世界を変えられたりするのだろうか?
 まさかね、流石にそこまで過信しているわけじゃない。一個人がそんなことできるはずないだろう。どこかのスーパーヒーローでも、アニメでもないんだから。
 そう……自分へのいじめすら止められなかった私では、この世界のどこかの紛争を止めることなんて到底できるわけがない。


「奏、難しい顔して大丈夫かしら?」
「え? あ……それを言うなら雨の方だよー! 雨の方が難しい顔してた!」
「していないわ」
「してたー」
「奏の方こそ、してたわ」
「してませんー」


 お互いに難しい顔をしてたというのを認めずに、言い合いをしながら時間を潰していく。
 とにかく今は事故の処理が終わらない限り、電車は動かない。タクシーで帰ることもできただろうけど、駅前には既にタクシーはなかった。
 同じ考えだった人がたくさんいたのだろう。別に自分の運が悪いとは思ってない。タクシーで帰っても、電車で帰っても私的にはどちらでもいいから。ただケーキは心配かな?
 内心そう考えていると、もう電車が動き始めるアナウンスが流れた。


「帰れそうだね」
「ええ」


 暗い雰囲気はダメだ、気を取り直そう! 私は笑顔を作り、雨と共にホームへ降り電車に乗り込んでいくのであった。
 ガタンゴトンとリズミカルに電車が揺れる。座席へと座った雨は腕時計をチラチラと気にしているようだ。


「雨、嬉しそう」
「嬉しいのだもの。時間、知りたくなったら聞いてちょうだいね?」
「そう何回も聞くようなものじゃないと思うけど……せっかくだから聞いちゃおうかな?」


 そういうと待ってましたと言わんばかりに腕時計を見て。


「二十時三十四分よ」
「もうそんな時間なんだ。お腹が空くわけだ……」
「帰ったらケーキを食べましょう」
「ケーキは主食じゃないからね! ご飯の後で食べるんだから!」


 雨から言われると本気なのか冗談なのかわからなくなるから質が悪い。けど、そんな話をしていればまたすぐに時間が経っていって、私たちの家の最寄り駅に到着する。


「まだまだ降ってるね、明日も降るかなぁ……」
「恐らくね、今日は迎えに行ってよかったわ」
「わざわざありがとね。雨が迎えに来てくれなかったら風邪引いてたかも!」


 駅前へ出ると、雨は傘を開いてくれる。人通りもピーク時に比べてかなり少ない、この天気のせいだろうけど。


「奏、行くわよ」
「あ、うん」


 言われるがまま私は雨の傘の中へと入り込む。
 何だろ、すごく嫌な気分。何でかはわからないけど、すごく胸騒ぎがした。さっきの人身事故とかのせいかな?
 早く家に帰りたい。きっと歩きにくいだろうけど、雨にしがみ付いてしまう。
 シトシトと降り続ける雨音の中、いつも家へと帰る時に通る裏道は私と雨以外、誰もいない。それでもしばらく歩き続けていると、後ろから車が来るのに気がつく。どうやら普通車のようだ。
 車は私たちにぶつからないようゆっくりと徐行し横を通り過ぎて、道から消えていく。


「…………」
「雨?」
「奏、早く帰りましょう。疲れてるでしょう?」
「う、うん……そうみたい」


 少し早足になる雨、私はそれに必死でついて行こうとする。一体どうしたの? 何かあったの?
 その途端、後ろからライトが照らされる。
 また車? あれは……さっきの。二度も同じ場所を通る必要があるの?
 そう考えていると私の中で雨の様子がおかしいことと、この胸騒ぎが一致する。瞬間、雨が大きな声で叫んだ。


「奏、逃げて!」
「えっ――」


 雨の声の後。
 タイヤが鳴る音と共に、エンジン音を唸らせ猛スピードで車が私たちの元へと走ってくる。
 そう、この車はこの道を通ろうとする車なんかじゃない。一度目の徐行は私たちを見定めただけで、二度目のこれは私たちを轢きに来たのだ。
 なんで私たちなの? そんなことを思う暇もなく、私たちは走り出す。けれど、追ってくる殺意の塊はあっという間にその距離を詰めてきた。
 間に合わない、間に合わない! これじゃ、私も雨も!


「……そう、そういうこと……なのね」
「雨! 早く――」


 走りながらそう言った時、私は雨から強く手を引かれた。
 前に進んでいた体は反動で大きくバランスを崩すと、そのまま雨に抱かれる。


「あ……め……?」
「私を、許して――」


 たったそれだけの言葉。私は言葉を返す暇を与えてもらえず、雨は向かってくる車の範囲外へと私を突き飛ばしていた。
 体が宙に浮く、同時に雨の姿が遠くなっていく。こんなスローモーションなのに、段々と雨が私の手の届かないところへと行ってしまう。


「っ――あうっ!」


 体が地面へと叩きつけられた時、次に私が見ることになったのは宙に舞う赤い傘と、鋼鉄の塊に撥ね飛ばされた雨の姿。
 華奢な体が宙へと舞う。それはもう、人間のできる動きじゃなかった。
 雨を轢いて勢い余った車は電柱へと激突し、耳を覆いたくなる派手な音を立て、ようやくその暴走を止める。


「そんな……あ……め……? 雨……いや……そんな……嘘だよ……ね、雨……?」


 フラフラと立ち上がる私は、覚束ない足取りでゆっくり、ゆっくりと、地面へと倒れ込んだ雨の元へ歩みを進ませる。


「っ……!」


 そこには目を覆いたくなるような惨状。雨の腕が、足が、ありえない方向へと曲がっている。


「血……血がこんなに……早く救急車を呼ばないと……は……早く……あ、あれ……」


 震える手で制服の上からスマホを探す。けど、それらしいものが見当たらない。どこ、どこにあるの? どこ……どこ?
 きっと落としたんだ。そうだ、そうに違いない。早く、早く見つけないと。
 雨の側で私は自分のスマホを探した。雨のスマホでもいい、とにかく見つけて救急車を。


「あ、あった……! 電話、は、早く……早く出て!」


 耳に押し付けるスマホ、それはすぐに繋がった。


「事故、です! 友人が! はい、お願いします……助けて、助けてください!」


 的確な場所はわからない。けど言っていくのだ。自分の名前、近くにあるもの、ここ付近の住所、幸い家の近くで間違えたりはしない、仮に間違えていてもGPSがある。この早さならきっと間に合うから。


「雨……あめ……ぜったい、絶対間に合うから」


 その時、前方の潰れた車の中から力づくで扉をこじ開け、誰かが出てきた。


「同じ目に、遭わせてやろうと思ったのに……」


 その人物はヨロヨロといった足取りで、私たちの前へと立つ。
 この声に私は聞き覚えがある。何度も忘れようと思ったのに、それでも忘れられない声だった。


「久しぶり……だね。髪色変えてるから、わかんなかったよ……赤坂 奏……」


 その声と共に、潰れた車が出火する。その明かりは微かに女の顔を照らし、私の目に映り込んだ。


「……あ……あぁ……はぁ……ふぅ……うぅぅぅ……!」


 息が乱れる。目立つツインテールにセーラー服。そして何を考えているかわからない笑みを、私は今でも忘れていない。


「あ……あやかっ……お前が……お前がっ!」


 怒りのまま、私はあやかの首に掴みかかる。


「ぐ……くっ……ふ……ふふ……殺す……の? あたし……を? あん……たが?」


 私は何も考えず、うわ言を呟きながら、その腕に力を込めていく。


「殺してやる。殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる」
「どーせ……あたしもこの傷じゃ助から……ない……宮城を絶望させるって目的は……果たせなかったけど、あんたを絶望に……染めるってのも悪くないわな……うっ……ぐ……っ……」
「雨をあんな目に合わせたお前はここで死ぬんだよ。死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね! ひ……ひひ……ひひひひひ!」


 ああ、何も考えられない。どす黒い何かが私の心を支配して、腕の力を強めていく。もう止められない、自分の意思じゃ止まらない。でも、それでいい、こいつは死んでもいいやつだから。


「が……が……」


 泡を吹き始めた顔が面白くて私の頬は上がりっぱなしだった。
 いい感じ、人を殺す感覚ってこんな感じなんだ。私をいじめていたあやかが、こんなにあっさり私の手の中でその命を散らそうとしてる。


 えへへ……もう少し、もう少しで殺せる……いや、殺さないほうがいい? もう少し遊んでみようかな? 私がやられていたように私がおもちゃにしてあげようか?
 うん、それがいい。そうしよう。……あれ? でも、こいつお腹から血を流してる? あれれ、じゃあひょっとしなくても死んじゃう? それはやだな、私がこいつを殺すんだもん。殺さないと気がすまないもん。
 もっと遊んであげたかったのに、遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで、そして最後に殺すのが良かったのに。
 それじゃ仕方ないな。私の手以外で死なれたら困るもん、もう一度、強く締めちゃおう。うん、私の手で終わらせるの。


 もう一度、私は腕へと力を込める。この女の体が浮きそうなくらいに。
 だけど、


「……かな……で。もう……やめて……」


 微かに雨の声が聞こえた。


「……! ……あ、め……?」


 私はすぐにあやかの首から手を離し、その声が聞こえた方へと走る。
 もう一人では動けない雨の側に私は座り込むと、ボロボロの体を抱きかかえた。微かに、ほんの微かに息をしている。


「雨……私、わたし……」


 雨はその言葉を聞くと、首を左右に振ってくれる。


「奏……ごめん、ね……やっぱり私は……奏を、不幸にしてしまった……」
「っ……喋っちゃダメ……!」


 これ以上、無理をしたら本当に雨が……。
 私は何を考えてるの、そんなわけがない。雨がそんなことになるなんて、そんなわけがないのに。でも、雨の体から流れ出すそれは、止まることを知らない。それは私の冷えた手を伝って地面へと落ちていく。


「私……奏に嘘をついていたことがあるの……」
「嘘……?」


 今まで雨は私に嘘なんかついたことがなかった。だからこそ、私は驚いてしまう。雨が何の嘘をついてたのかと。


「祝福の眼の力は……単に奏の運を上げる……だけじゃない。昨日の運の上限を、今日の下限とし……上げ、続けるの……奏の運はもう悪くならず……これからも一生……ずっと上がり続ける……」
「それが何なの、本当に運がいいなら雨がこんなことになるわけないじゃない! 私はやっぱり運が悪いんだよ……」
「違う……わ、これは私のせい……この力にはデメリットがあるの……」
「……そんなの今じゃなくていい、後でいくらでも話せるよ、治ったら話せるから!」


 雨はまた左右に首を振った。


「貴女の叔父が亡くなったのと、あやかたち三人組が事故にあったのは……奏の強い運が引き起こしたことじゃない……奏に……危害を加える者たちだったから、不幸が訪れただけ」
「それが何なの……どっちにしたって同じことじゃない……」
「そう……ね……奏が望めば、どちらにせよ……そうなっていた。だけど……奏に強く関わる人物にも……それが影響するのだとしたら……?」
「何を言ってるの……」


 私に強く関わる人、それは……。


「そう……このデメリットは……奏に祝福の眼を使った時から起こるのが決まっていた……。この不幸は……奏の運でも止めることはできない……けれど、それでもよかった。あの日、奏が帰ってしまえば、きっと貴女は貴女の叔父に殺されていたと思うから……」
「そんなの……そんなの! どうして? なんで? 私のためになんで雨が!」
「私のことを……わかってるくせに……奏は意地悪だ……わ……」


 わかってるよ! でも、意地悪なのは雨だよ。私に嘘を言って、デメリットを秘密にして。
 あの不可解な事故はこのデメリットが原因なの? 一時期、雨がコップを割り続けて、怪我を負い続けたのはそれが原因だというの? じゃあ、なんでその後、怪我なんてしなくなったの? 今日までずっと。
 私の心を読んだかのように、雨は言葉を、小さな言葉を紡いでいく。


「なんで……かしらね? もしかしたら、この欠点が知らずに消えてて……私も奏と一緒にずっと生きていけるんじゃないかって思った……そんな、わけないのに……私は自分の為に、奏を利用していたのだから……」
「利用してって……雨は私と一緒にいたかったから、眼の力を使ってくれたんでしょ⁉ いいよ……っ! 雨にだったら、いくら利用されても構わない! 構わないんだよ⁉」


 辛うじて動く左手を上げ、雨は私の頬に触れてくれる。もう血が通ってないくらいに冷たいその腕には、赤い腕時計が事故の影響で時を止めていた。


「……奏が初めて私の前に現れてくれて、傘を差し出してくれた時、すごく……本当にすごく嬉しかった……まるで世界に色がついたように、胸の中が温かくなった。それからその理由を探した……でも一人では見つけられなかった……ずっと知りたかったの……もしかしたら奏なら教えてくれるかもしれないって……この胸が温かくなる正体を……だから、もう一度……貴女に会いたくて……っ……ゲホ、がはっ……!」
「雨っ! もういい……もう喋っちゃ……ダメ……!」


 咳と共に真っ赤な血を吐き出す雨。
 サイレンの音が聞こえる。もうすぐ、救急車がここへ到着するんだ。助かる、雨はきっと助かる。だから早く……早く!


「私、ずっと……奏と一緒にいて、答えにっ、辿り着いたのかもしれない……。この気持ちを言葉で表せるならそれは……きっと――」


 聞いてあげないと、だって、もう雨は……もう。私は雨の唇へとその耳を近づけた。そしてその真理を知ることになる。


「『愛』……なんじゃないかって……」


 雨の言うそれは、きっとこの世界でもっとも純粋で、穢れないもの。本当の愛、だった。


「でも、矛盾してるの……私は愛を知ら……ないから。ねぇ……奏……私の言っている愛って……合ってる……?」


 首を傾げ、雨は私へその質問を投げかける。
 私は答えなきゃいけない。雨のその疑問に私の生きてきたすべてを使って、答えてあげないといけない。
 両親が愛し合っていた時の記憶、私が愛されていた時の記憶。これを小さな私は無意識的に雨へ渡していたんだ。
 そう、あの日の黄色い傘と共に。


「合ってるよ、雨……。だって、雨と再会した日から……私も愛をもらっていたんだから……」
「そう……なんだ……よか……った。奏……に私は、愛を……渡せてたのね……」
「……雨、雨⁉」
「奏……私、死にたく……ないわ……死に……たくない……まだ一緒に……奏と……」


 雨は懇願するようにそう言い続ける。頬に触れる手を私は握り返し、強く、強く叫んだ。
 それに対して雨もまた、手を握り返してくれる。


「大丈夫だよ……! 大丈夫だから! ぜったい、また一緒にいられるから!」


 今度は私が助ける番なの、あの日、雨が私を救ってくれたように今度は私が救うんだ。でも、雨の握り返す手は弱々しく、次第に私だけのものになっていく。


「か……なで……ありが……と……」


 微かに唇が動く。
 なに、何よ。いつもごめんって言うのに、感謝の言葉なんて言わないでよ! 私の生きる理由に雨はなってくれるんでしょ⁉ そう約束してくれたじゃん! ずっと一緒にいてくれるって!
 心の中の言葉が溢れ出しそうになる。けど、私が言いたいのは、こんなのじゃない。私は、私はね……。


「雨が、側にいてくれるだけで何もいらないんだよ……?」


 けれど、もう返事は戻ってこない。私の目を見つめたまま、何も喋らなかった。


「……あ……め……? 雨、ねぇ、雨……?」
「…………」


 真っ赤な眼を開けたまま、その目に雨粒が落ちてきても彼女はその眼を閉じることはなかった。空から降り注ぐ雨粒、それは私から彼女の温もりを容赦なく奪っていく、血の温かささえも急激に流していく。


「雨……? うそ……だよね? ダメだよ……まだ教えてない……雨が知りたかった愛のこととか、まだ全然教えきれてないよ……? だから……雨、返事をしてよ……雨、雨!」


 私は雨の頭に自分の顔を擦り付けるよう言う。
 すごく冷たい雨の体。私の頬を伝う熱い涙が彼女を伝っても、何の慰めにもならない。
 もう息がない、人工呼吸をしないと雨が死んでしまう。
 私はその場に彼女を寝かせ、鼻を摘んで唇から息を吹き込んだ。死にたくないという雨の願いを、今度は私が息吹に込めて必死に紡いでいく。


「はぁ、はぁ……お願い目を覚まして! 雨、生きて、生きて!」


 何度も願いを彼女の中と吹き込み、何度も、彼女の胸を両手で押し続ける。
 お願い、私の運。祝福の眼の力。その力が本当だとするなら、今ここで雨を生き返して、生き返せ! お願い、お願い!


「こっちだー! 車から火が出てるぞ!」


 男の人の声が聞こえる。顔を上げると赤いランプが辺りを照らしていた。
 救急車が到着したの? お願い、雨を……雨を助けて。
 救急隊員の人が私たちの元へやってくる。


「大丈夫ですか! っ……こっちの子の怪我が酷い! それに息と脈が、くっ……早く!」
「雨を助けて……助けてくださ……い……お願い、お願いします……」
「全力を尽くします、貴女も乗ってください!」


 雨はすぐに救急車へ乗せられていく。そしてもう一人、あやかも運ばれていた。
 私の記憶はその辺りからない、いつの間にか拾っていた赤い傘をギュッと握りしめていただけ。
 必死だった。それほどに必死で、私の頭は真っ白い霧で包まれて、夢だったらいいのに、何度もその霧の中で思い続ける。


 どのくらいの時間が経ったのかわからないけど、私が呼ばれた時、外はもう明るかった気がする。


 通された白い病室。
 べッドへと横たわる雨。
 彼女のその顔には白い布が被せられていた。


 どうして、なんで、そんな。


 その言葉だけが私の頭の中でリフレインする。
 私に突きつけられた真実は、もう二度と彼女が目を覚ますことはないということだけ。
 彼女がその眼で与えてくれた運は、彼女の言った通りそのデメリットを打ち消すことはできなかった。


 世界は不条理でできている。


 彼女の名前と同じ、雨の降る六月。雨の誕生日の翌日に。
 こんな最低の世界で、一点の曇りもない純粋な愛で私を愛してくれた彼女の息が、この日、永遠に切れてしまった――。