「奏、どうかしら? 今日のハンバーグの味は」
「んーっ! すっごい美味しいよ! 流石、雨だね!」
「うふふ、そんなにおだてても何も出ないわよ?」


 雨は笑ってそう私に言ってくれた。
 そう、今日の晩ごはんは私の好きなハンバーグ。子どもっぽいかもしれないけど、ハンバーグは小さい頃からの大好物だった。
 特に雨が作ってくれたハンバーグは絶品で、チーズまで入っている。私のテンションは上がりまくりだ。


「えっへへ……辛いことばっかりだったけど、雨と一緒にいるとそのすべてが忘れられるような気がする!」
「そう? ふふ、私も幸せよ。奏に出会えてとても」


 本当に幸せな時間だ。このまま時が止まってしまえばいいのにと思うくらいに。でも雨の表情は暗くなっていく。


「奏、私は貴女を不幸にしてしまうかもしれない……」
「え……それ、前にも言ってくれたよね。どうしてそんなこというの?」
「それは……」


 雨はゆっくりと椅子から立ち上がると、私の横を通り過ぎていく。


「奏、ごめん……ごめんなさい……貴女を不幸にしてしまって……」
「そんな……ことないよ? 雨、こっちを向いてよ。 ねぇ、雨、雨っ!」


 その瞬間、雨の後ろ姿が光り輝き、そしてその光に飲まれるように消えていってしまった。


「待って! 待ってよ! 置いていかないでよ、雨っ! 雨ぇぇぇっ!」


 §


「雨っ……あう……はぅ?」


 顔を上げると、目の前には全身鏡があった。頭にはビニール袋みたいなもので髪の毛が密閉されている。


「あ、そっか……髪染めの途中に寝ちゃったんだ……あれ、雨は……」


 周りを見渡すが雨の姿はない。
 胸騒ぎを覚える。きっとさっきの夢のせいだ、雨が黙って私の前からいなくなるわけがないのに、どうしてか呼吸が荒くなっていく。
 だけど、その心配は杞憂に終わることになった。
 雨がお風呂場の方から戻ってきたのだ。


「奏、起きてたのね。……? 随分顔色が悪いわ。大丈夫?」
「雨……良かったぁ……」


 私は全身から力が抜け、椅子に項垂れる。所詮、夢は夢だった。


「髪染めの匂い……のせいではなさそうね」
「あ……うん。ちょっと変な夢見ちゃって……もう大丈夫」


 夢の中の雨は私に笑いかけてくれていた。ありえないはずなのに、確かに笑いかけてくれていたのだ。それと同時に笑えない雨の境遇を思い出して胸がキュッと痛くなる。


「そう。あぁ、奏が寝ている間にお風呂を湧かせておいたの。もう髪の方もいい時間だと思うから、入ってきてはどう?」


 優しくそう言ってくれる雨、その気配りがとても嬉しい。


「うん……そうする」
「ええ。それじゃ、行ってらっしゃい」


 私はそのままの格好で脱衣所の方へと向かった。
 ポンチョ風のビニール袋を頭へと一旦巻き付け、上下の服を先に脱いでいく。少しでも髪染め液に服が触れないようにするためだ。
 そして最後にポンチョのビニール袋と、頭につけていたビニール袋を剥ぎ取りお風呂場へ。
 入ってから鏡を覗くと、ぺったりしていて髪型まではわからないが髪が黒から明るい亜麻色へと変わっていた。


「こ……こんな風になるんだ……へぇぇ……なんかギャルっぽい感じがする……?」


 とにかく早く上がって雨にも見せてあげよう。
 カラスの行水ほどではないが、早めに上がりたい。
 体と髪を洗い流す、もちろん液のついていた髪はしっかりと洗い流してお風呂から上がった。


「雨、びっくりするだろうなぁ……ふふふー」


 頭と体を拭きながら脱衣所にある洗面台に備え付けられた鏡を見た。
 切る前と違って全体的に髪は短くなっている。
 前髪もパッツンではなくアレンジが利くように、後ろもショートだけど短めのボブな感じをあしらっている。
 おかしいどころではない、本当に美容院に行ったような感じだ。髪色は市販品の限界だろう、それでも綺麗に染められていて申し分ない。


「ほんと……なんでもできちゃうんだな。雨は……」


 そんな子が私の友人だなんて本当に鼻が高い。なんでも出来すぎるから嫉妬する? と聞かれてもそんなことはない、レベルが違いすぎるとその気すら起きなくなるのだ。
 ただ、思うとすれば私も彼女みたいにいろいろできるようになりたいなと思うくらい。


「あ……しまった。着替え持って来るの忘れて――」


 私が辺りを見回すと、棚の上に着替えは用意されていた。


「も、もう……こんな気配りまで」


 やっぱり雨のようにいろいろできるようになるのは無理かもしれない。
 私は苦笑いしながら思い浮かべた。
 随分前にもこうやって用意してくれた服に懐かしさを感じ、その着替え、部屋着へと身を包んだ。


「雨ー? 着替えありがと、そして……お待たせっ!」


 頭に乗せていたバスタオルを剥ぎ取り、白いソファに座っていた雨へとその姿を現した。


「随分明るくなったわね、見違えたわ」
「えっへへ、雨のおかげだよ!」
「綺麗に染めることができてよかった。髪型は気に入ってくれた?」
「うん! すごく軽くなっていい感じ!」


 髪染めは時間がかかると思っていたけど、寝ていたせいか実感があまりない。
 時計を見てみると昼過ぎ、髪を切り始めてからすごく時間が経ったわけではないようだ。


「せっかくだし、奏。お化粧をしてみない?」
「え……け、化粧かぁ……」


 化粧にあまりいい思い出はない。小さい頃、お母さんの口紅を使ったりして怒られたことがあるからだ。高校生くらいになればやった方がいいのかなとは感じていたけど、家庭環境が良くなかったのもあり、そもそも化粧道具を持っていない。


「薄いメイクをするだけよ、それも私がするわ」
「え……いいの……?」
「ええ、奏が変わりたいと言うのだからサービスする」


 気乗りはしなかったのに、雨がしてくれると言うのならやってもらいたくなる不思議。
 私は上手く口車に乗せられ、彼女の部屋へと歩みを進めていくのであった。
 雨が開いたのはそれなりの道具が揃っている化粧バッグ。ファンデーション、チーク、グロス、マスカラ、ビューラー。様々なものがあるが、雨自身がそれらを使っているのは見たことがない。
 私は雨の横顔に目を向ける。そもそも雨自体が化粧をしてないように見えるけど、


「家にいる時はしてないわよ」
「……やっぱり私、わかりやすいのかな」


 考えていることが読まれ、私はため息をついた。


「私も厚いメイクはしたことがないの。ただ、必要になる場合を考えて購入しただけよ」
「雨がすっごい付けまつげをしてるとこ、少し見てみたい気がする」
「一生ないかもしれないわね。どうして買ったのだか……」


 雨はひとりでにツッコミを入れると、私に化粧を始めてくれる。慣れた手付きで、化粧道具を手に取っていく。
 そして本当に少し手を入れただけでメイクは完成した。
 雨が私に鏡を手渡してくれると、そこには。


「……嘘、これが私……?」
「すごく可愛いわ。大人びたわね」


 亜麻色の髪だけでも少しは垢抜けた感は出ていたのに、ファンデーションと薄いグロスを塗るだけでも、大人な感じが出ている。
 しばらくの間、私は声を出すことができなかった。本当に私が変われる日を、彼女は作ってしまったのだ。


「……雨、私……雨ばっかりになんでもしてもらってるね……」
「奏? あっ」


 雨はすぐにハンカチを取り出し、私の目に当ててくれる。


「どうしたの、泣くほどのものじゃないでしょう?」
「ううん、私も返したいの……雨に、私しかできないことを」


 メイクが涙で崩れないように私は上を向いた。
 伝えよう。私がしたいことを、私がやりたいことを。


「私ね、やりたいことできたんだ。その為に私、雨にお願いしたの。今までの自分を変えたいって、髪を切ってって」


 雨は何も言わずに頷いてくれる。私の言葉を待っていてくれている。
 私は少しだけ息を上げて、


「雨、私」


 そこまで言って、もう一度息を吸う。


「雨の感情を取り戻したい」


 そしてその言葉を告げ、


「雨の『わからない』を教えてあげたい。そしていつか笑わせてあげたいの」


 言い切った。
 途端に雨の赤い眼が潤み、一筋の涙が零れ落ちる。


「二度は流れないと思ったのに、奏は……私を泣かせる名人ね……」
「これが私にできることだもん。今度は涙じゃなくて本当に笑わせてみせるよ。そして感情を取り戻してみせるの。ぜったい無理なんかさせないから」
「……ねぇ、奏。教えて? 私はなぜ、泣いているの?」


 私は彼女の涙を人差し指で拭って、手を握った。


「きっと雨は本当に嬉しいって思ってるんだよ。だから、涙が出るの」
「言葉の嬉しいだけじゃなく……本当に嬉しいから、涙が出てしまうの? じゃあ、これは悲しみなんかじゃない、喜びの涙というものなのね」
「うん、私はそう思うよ」
「そう……これが嬉しいって思う気持ちなのね。もう『わからない』なんてことはないわ。奏から教えてもらったもの」


 雨はその場から立ち上がり机の近くに大切に置かれてあった赤い傘を抱きしめ、持ってくる。


「奏、ありがとう。すごく……すごく嬉しかったわ」


 雨はあの時のようにたくさん涙を流しながら、そう言ってくれた。本当の意味の『嬉しい』を知ったんだ。
 言葉としてじゃなく、気持ちとしての『嬉しい』を。
 待ってて雨、その無表情の奥に眠る。いつか見た笑顔を、もう一度引き出してみせるから。


 §


 次の日、今日から三学期が始まる。
 天気はあまり良くなくて、どうやら今晩から雪が降るそうだ。
 久々にセーラー服を来た私は髪色と化粧も相まって異色のオーラを放っていると思う。ちなみに化粧はまだできないので、雨がしてくれたのだけど。


「学校に化粧して行っちゃ不味かったりしない?」
「堂々としていれば問題はないわ。あそこの学校は比較的緩い校則だし、今時、珍しいわね」
「でもあんまり髪染めてる子いないし」
「今更何を言ってるの。奏、このモヤモヤした感情はなにかしら。教えて?」
「そ……それは怒ってるんだと思うよ……」
「別に怒ってないわ」
「じゃあ聞かないでよ⁉」
「冗談よ。怒ってるわ」
「そっちの方が私的には問題だよー!」


 雨には振り回されっぱなしだ。でも、私がそうすると決めたのだから、ちゃんと雨の疑問には答えていく。
 これでも昔に比べたらすごく雨も喋るようになったし、なんとなく感情も掴みやすくなった。無表情を変えるにはどうしたらいいのかわからないのが今後の課題だろう。


 学校へ着くと、やはり私の姿は物珍しさがあるのか目を引くこととなった。
 まぁ、無理もないよね。大人しい感じで過ごしていた私が、冬休み明けには亜麻色の髪で化粧もしていたのなら。
 でもヒソヒソと話し声が聞こえてきて、援助交際だの何だの言われるとは思ってなかった。それからしばらくして、担任の先生が教室へと入ってくる。


「よーし、お前ら席につけー? んー? そこの茶髪のやつー」


 このクラスに私以外、髪を染めている生徒はいない。つまり私のことだろう。私は机で寝そべらせた体を起こし、顔を上げる。


「お前、赤坂か? なんだ、その髪は」


 そういって私にいちゃもんをつけてくる。堂々としているつもりだったのに、ただだらけているようにしか見えなかったのかもしれない。
 そもそも校則的には大丈夫なのに、どうしてこんなことを言われなくちゃいけないのか。


「先生。髪色と化粧に関して校則に違反することはないのではないでしょうか?」


 一番前の窓側の席。雨が手を上げ立ち上がると、私の代わりにそう言ってくれた。


「ん……んーだがなぁ」
「赤坂さんだと、何か問題でもあるのでしょうか?」
「い……いや、赤坂、すまなかったな」


 渋々と言った感じだが、雨に言い負かされ先生は引き下がった。私一人だったら、私が言い負かされていたかもしれない。
 私が雨の方を見ると彼女は『今はそっちを見ることはできないわ』と言いたげに、首を横に振っていた。


「ふふ……雨ってば……流石に真後ろじゃないけど仕方ないよね」


 それから始業式へと体育館へ向かう中、私と雨は話し始める。


「私は怒ってしまったかもしれないわ」
「また急になんで?」
「何も悪いことしてない奏が悪いように言われたからよ」
「あぁ……それは怒ってるかも」
「そうなのね……これが怒ってるという感情。覚えたわ」
「変な覚え方はしないようにしてね……?」
「私は怒ってないわ」
「え? えぇ……?」


 感情を教え始めて、まだ二日目程度だけど思ったより教えるのは難しいかもしれない。
 感情に関して雨は子どもよりもかなり拙いのだ。いや、子どもはそれなりに喜怒哀楽がはっきりしている分、わかりにくい大人の方が雨は近いのかもしれない。
 道のりは長い、でも少しずつだけど前へ進んで行っている気がする。