真雪が部屋に来て、3週間が経った。

相変わらず体は細いままだったけど、熱は下がったし咳も収まっていた。

今はリハビリがてらゴミ出しや休日の買い物を手伝ってくれる。

というか、あたしが不在の間、食事の用意、洗濯、掃除といった家事の全てをやってくれるようになった。



「おかえり」

「なにこれ、求人?」



 仕事から帰ると、テーブルの上にはコンビニに置いてあるような無料の求人情報誌が広げられていた。



「そろそろ仕事探そうと思って」

「もう?」

「うん、いつまでも汐の世話になりたくないから」



 正直、真雪がいてくれてかなり助かっている。

帰ってくれば部屋は明るいし暖かいし、料理も作ってくれるし、洗濯物は畳んでしまってくれるし、部屋の掃除なんて今はまともにしていない。

 むしろあたしが真雪の雇用主になったほうがいいんじゃないかと思えるくらいだ。



「……雇ってやろうか?」

「汐が? 俺を?」

「うん」

「嫌だよ、ちゃんと外で働きたい」

「だって真雪がいてくれてかなり助かってるよ。このクソ寒い日に帰ってきて部屋が暖かいってまじで天国だぞ!」



 ベッドにダイブして転げまわる。

はぁ、めちゃくちゃ暖かい。5連勤の後にだらけるのって本当に至福。風呂に入るのも面倒だ。



「汐、着替えなよ。だらしないよ」



死にかけていた真雪が復活すると、立場が逆転したようになった。

あたしは真雪に甘えて、真雪はそれを呆れながら受け入れる。



「いいじゃん。ところで今日のご飯なに」

「カレー」

「お、金曜日にカレーって最高だよな! わかってんじゃん!」



 飛び起きてキッチンに走る。

ルーを入れてない状態の鍋がぐらぐらと煮えていた。真雪の了承を得て辛口を投入する。





「つうかさ、今の時期って重労働とか年末年始の短期しかねえだろ。また体壊すんじゃない?」

「……うーん」



 スプーンで一口分のカレーをすくったまま、左手で求人誌をめくって真雪が唸る。



「おとなしくあたしに雇用されればいいじゃん」

「社会保険つけてくれる?」

「あー、そういう難しいのは無理」

「ほらね」



 呆れたように笑う。

外に働きに出たいという真雪を応援したい気持ちもあるけど、今は心配の方が大きい。

だからもうしばらくはあたしのところにいてほしいのに。

 なんだか息子が自立する瞬間に立ち会っているようだ。



「真雪ってバイト経験あるの?」

「あるよ、一応。ファミレスの接客とか、スーパーの品出しとか」

「なんだ、結構やってんのな」

「重いものは持てないけどね、ひ弱だから」



自虐ぎみに笑って求人誌を閉じる。

「いいとこあった?」と聞くと、その顔のまま首を横に振った。





 食事が終わって真雪がシャワーを浴びているうちに皿の後片付けをする。

明日も食べられるようにと、多めに作ってくれたカレーを鍋ごと冷蔵庫に入れる。

そのとき通勤用のバッグから着信音が聞こえた。


 この時間にかけてくる相手に心当たりがない。洗い物で濡れたままの手をバッグに突っ込む。


ーー石川さん……。


 表示された名前を見て、ドキリとする。電話が来たのは、真雪がここで生活することになった直後だ。

あれから3週間、あたしから連絡をすると言ったきり、そのままになっていた。



「もしもし」

『……汐?』

「石川さん、お久しぶりです」

『久しぶり、元気だった?』

「はい、元気でした。あ、すみません、連絡しなくて」

『うん、ちょっと待ちくたびれた』



 電話の向こうで石川さんが笑った。外にいるのか、車の走る音が聞こえる。



「まだ外ですか?」

『うん、今仕事終わったところ。汐は?』

「あ、あたしは、家です」

『そっか』



 沈黙が流れる。
 ピッという電子音とドアを閉める音の後、外の騒音が消えた。



『……いとこさんはまだいるの?』

「あ、はい」

『そう。仕事で悩んでるんだったっけ』



 一瞬、何の話かわからなかった。あたしが作った設定だ。

真雪は私のいとこで、初めての仕事で悩んで実家に帰れないことになっていた。



「……そうですね、やっと最近、外出できるようになったくらいで」

『体調も悪かったんだ』

「あ」



 シャワーの音が止んだ。真雪が戻ってくる。

部屋にいる「いとこ」が男だとわかったら、石川さんはきっとあたしのことを軽蔑する。



「石川さん、すみません。ちょっと、」



 風呂場のドアを見つめる。


「トイレに行きたいのでまた後でかけ直していいですか」


 苦し紛れの言い訳だ。

石川さんは吹き出した後「それは大事だな」と笑って電話を切った。

 ほっと息をついて携帯を握りしめる。それからすぐに真雪が出てきた。





「汐、シャワーありがとう」

「うん」

「どうしたの?」

「……なにが?」

「なんかあった? 電話?」



 真雪の視線があたしの胸元の携帯に向けられる。



「ううん」

「そう? ドライヤー借りるね」



 真雪があたしの横を通りすぎて、ベッドとテーブルの間に座りながら、テーブルの下に置いたドライヤーを手に取った。



「真雪」

「ん?」

「来週、いつかわかんないけど、1日だけ帰るの遅くなるかも」

「わかった」

「風呂行ってくる」

「行ってらっしゃい」



 浴槽を洗ってそこにお湯を溜めながら、隣のトイレに腰をかける。

服と一緒に持ち込んだ携帯に触ってリダイヤルを押した。

 数回の呼出音の後、留守番電話サービスに繋がる。メッセージを残さないまま通話を切った。

 もしかしたら運転中かもしれない。


 『来週の水曜日、食事に行きませんか』。短いメールを打って送信する。


返事は浴槽にお湯が溜まった頃に来た。


『金曜日でもいい?』


 日にちはいつでも良かったから、それで了承する。




 風呂からあがって、テーブルをどかして早々に布団を敷いた上でテレビを観ていた真雪に、来週の金曜日は遅くなることを告げた。



「ご飯も食べてくるから用意しなくていい」

「うん、わかった」

「……1人で大丈夫か?」

「留守番ならいつもしてるよ」



 真雪が詳しく聞いてこないのが、ありがたかったけど複雑だった。

真雪を家で待たせて石川さんとご飯を食べるのか。なんでだろう、前のように気分が乗らない。

 うつむきながらバスタオルで頭を乱暴に拭いていたら、後ろから温風がかかった。

振り向くといつの間にかベッドに腰を掛けた真雪がドライヤーを持って笑っている。




「なんだよ、自分でやる」

「いいのいいの、前向いて」



 手を伸ばしてドライヤーを掴もうとすると、ひょいと避けられる。

仕方なくテレビの方に向き直すと風を当てられた。

 ときどき真雪の手が髪に差し込まれる。それがくすぐったくて頭を下げる。



 真雪が元気になってくれて嬉しい。

生きることで精一杯だったのに、どんどんできることが増えてきて、こうしてあたしの世話まで焼いてくれるのが嬉しい。

だからこそ、そろそろ手を離さなきゃいけないんだろうと思う。

あたしは真雪の親でも姉でもない。自立しようとしているのを妨げるのは害悪だ。

 ドライヤーの音が止んで、ふわふわと散らばった髪を抑えるように撫でられる。



「終わったよ」

「ん、ありがと」



 真雪がベッドから降りて、あたしはそのまま布団の上に転がった。



「汐、ここで寝るの?」



 ドライヤーのコードを束ねながら真雪が困ったように笑う。

貸していたベッドはいつの頃か、またあたしが使うようになって、床に敷いたこの布団は本来の持ち主である真雪が使っていた。



「……うん。今日はここで。真雪はベッド使え」



 枕に顔を突っ込んで息をつく。

同じ柔軟剤を使っているのに、あたしとは違う匂いがする。

真雪は小さいときによく遊んだ公園みたいな暖かい匂いがする。


 いなくなってしまうのか。せっかくここの生活に慣れてきたと思ったのに。

 別に今生の別れでもないのに、部屋はすぐ隣なのに、この部屋からいなくなってしまうことを想像したら鼻の奥がつんと痛くなった。



「テレビと電気消すよ」



 あたしの返事を待たずに部屋が暗くなった。

体に布団がかけられて、隣のベッドが軋む音がした。



 眠れなかった。眠くなかった。

せっかく明日は休日なのに、本当だったら少し夜更かしする予定だった。

真雪を連れてコンビニに行ったりして。



 寝返りを打ってベッドの方に体を向ける。

ベッドの下には少し隙間があった。

少し前、こういうベッドの下に殺人鬼が潜んでいるなんて都市伝説があったな。

幸いあたしのベッドは人が入れる余裕はないけど。

 そんなくだらないことを考えていたら、ちく、と下腹部が痛んだ。

約2ヶ月ぶりの感覚に飛び起きてトイレに駆け込む。



「……あぁ、やっぱりか」



 元々規則正しく来るほうではなかったけど。目にした瞬間、合図のように腹が痛み出す。



「……いてて」



 個室の中でうずくまっていたら、外側からドアを叩かれた。



「汐? 大丈夫?」



 真雪だ。さっき飛び起きたときに起こしたのかもしれない。




「……大丈夫」

「具合悪いの?」



 心配そうな声だ。

もう一度「大丈夫」と言って、早く寝るように促す。

生理になると体中がすぐ冷えるのはなんでだ。

腹も痛いし、これから1週間は頭痛と吐き気にも耐えなければならない。

体質とはいえ本当に面倒くさいな。


 女親や姉妹がいないから誰かに相談することもできなくて、こういう体質が重症に当たることを最近まで知らなかった。

なんとなく行きづらくて、病院には行けていない。


 体を折り曲げて腹痛に耐えていたら体が冷え切って歯がかちかち鳴り出す。

一気に重だるくなった体を引きずるようにして無理やりトイレから出たら、部屋が明るくなっていた。

ベッドに真雪がちょこんと座っている。目が合うと立ち上がって寄って来る。



「大丈夫? 腹痛いの?」

「……うん、大丈夫」



 真雪から離れて通勤用バッグから薬を取り出す。

真雪が気を利かせてコップに水を入れてきてくれた。


「ありがとう。ごめん、ついでにヒーターつけてくれる?」



 薬を飲んでからパーカーを出して頭からかぶる。

パイル地の靴下も履いてファンヒーターの前で体育座りの格好をしながら手足を温めていたら真雪が隣にやってきた。




「寒いの? 風邪ひいた? 食あたり?」

「全然違う。生理」

「せ」


 真雪が口籠る。

オブラードに包んでいる余裕はないし、正直に言わないと心配しまくって半永久的に聞いてきそうだったから、はっきり言ったらこれだ。

まぁ男からしたらどういう反応をしたら良いのかわからないよな。



「すげえ寒いし腹痛いし貧血になるし、明日あたり頭痛と吐き気も加わるからめちゃくちゃ機嫌悪いかもしれないけど、気にすんなよ」

「そんなに?」

「毎回こんなもんだ。電気消して先に寝てていいよ」



 手を擦り合わせる。指先がまだ冷たい。

真雪が離れたと思ったら肩に毛布をかけられた。

そのまま背中に覆いかぶさるように、肩に腕が回って胸の前で組む。

驚いて振り向こうとすると真雪の顔がすぐ近くにあった。

視線がぶつかると、いたずらをした子どものようにくしゃっと笑う。



「寒いって言ってたから」

「あのなぁ」



 何を考えてるんだか。
ーー何も考えてないんだろうか。

そういうことをしても何も思わないんだろうか。

純粋にあたしが寒がっていたから温めようとしてるだけなのか。


 毛布1枚越しに感じる体温に恥ずかしくなって、胸の位置で巻き付く手を見る。

骨ばって関節が目立つ。手の甲にがまばらに並ぶクレーターのような火傷の痕。

触ればきっと離れていくだろうから、見ないふりをして自分の足を触る。








 休日は買い物に出る予定だった。

真雪と一緒に実家近くのスーパーまで行って、1週間分の食材を買う予定だった。

 でも案の定、貧血と腹痛、吐き気のトリプルパンチで朝から動けない。

昨日のカレーの残りを食べた真雪が歯を磨きながらベッドの上のあたしを見下ろした。





「なにか、買ってきてほしいもの、ある?」


 口の中の泡を落とさないように途切れ途切れに話す。

「特にない」と言いながら、ナプキンが切れかかっていることを思い出した。

でも頼めない。後でコンビニにでも行くか。


 今週分の食事代として、「大事なものボックス」から1万円を取るように指示をして布団の中に潜り込む。

 ご飯は真雪が作ってくれるから食材は適当に、何を買ってきてもいいことにしている。

ダウンジャケットを着てから、律儀にベッドサイドまで来て「行ってきます」と声をかける。



「ごめんな」

「いいよ、ゆっくり寝てなよ」



 玄関のドアが閉まる音を聞いて、のっそりと起き上がる。

あまりの腹痛で眠れそうになかったし、朝から何も食べていないから喉も渇いた。



 市販薬を出しながらキッチンに立って、そのまま水をカブ飲みする。

つけっぱなしのテレビでは情報番組が流れていて、1週間後に控えたクリスマスイベントを紹介していた。

 サンタクロースなんてとっくに信じてないし、パーティをする習慣もなかったから特に興味がなかった。

それよりも意識はすでに年の瀬に向いていた。


 今年は真雪がいるなら年末年始、実家に帰らなくてもいいか。

いつでも会える距離にいるし、帰ったところで仕事中じゃない父と何を話していいのか、いつもわからなくなる。

もそもそと父の作ったおせち料理を食べて、父もあたしもカウントダウンが始まる前に自室に戻っていたし。

そうして三が日までは絶対いようと決めても、妙に居心地が悪くて1月1日の夕方にはこの部屋に戻ってきてしまう。

去年も一昨年もそうだった。








 死にかけていた日々も、週の半ばを過ぎると出血量とともに少しずつ落ち着いてきて、まともに生活できるようになった。



「毎月これだと辛いね」

「いや、不定期だからそうでもない」

「毎月来るものじゃないの?」

「人によるんじゃない。つうか、男のお前にこういう話すんの、なんかヤダ」



 玄関先で座ってブーツのファスナーをあげる。
その後ろでは真雪が家政婦みたいにあたしのバッグを持って立っていた。



「明後日はご飯いらないんだよね」

「あー、うん」

「早く帰ってくる?」

「どうだろう、わかんねえ」

「明日はいつも通り?」

「かもな」

「わかった。じゃあお父さんによろしく」

「……お前はあたしの嫁か?」



 祝日の水曜日。先日、今年の年末年始は帰らないと電話をしたら、今日店に来るように父から呼び出された。

 ちょうどよかった。実家にある漫画本を取りに行きたかったし、あたしからも父にお願いしたいことがあったから。

真雪も連れて行きたかったけど、微妙に鼻風邪っぽかったから留守番をさせた。


 忙しくない時間帯を考えていたら、すっかり夕方になってしまった。
日は沈みかけていて薄暗い。

 家から10分の最寄り駅から1駅分、電車に乗って、駅ビルや繁華街が並ぶエリアから少し歩いたところに父の仕事場兼あたしの実家がある。

 今の時間はちょうどカフェからバーに切り替わる空白の時間で、大きなカウベルのついたドアには「close」と書かれたプレートがぶら下がっていた。

試しに引っ張ってみると家には戻ってないみたいで、やっぱり開く。




 バーのために薄暗くした店内にゆったりとしたピアノジャズが流れている。

お客様が座るカウンターには父が座っていた。

外したエプロンを空いたイスにかけて、珍しくタバコを吸っている。



「汐」

「ただいま」



 片手を上げると、目尻にシワを作りながらタバコの火をもみ消して父が席を立った。

そのままカウンターの中へ入っていって、今度はあたしが父の座っていた場所に腰を下ろす。

 父は業務用の大きい冷蔵庫を開けて、中から小さな白い箱を取り出すとあたしの目の前に置いた。



「ーーはい」

「なにこれ」

「クリスマスケーキ」

「はぁ?」

「汐が今年の年末年始は帰ってこないって言うから、これはもういよいよ恋人でもできたのかと思って。おせち振舞えないならケーキにしてみた」

「いや、いないから。まぁでも同居人はいるから、もらっておく。ありがとう」

「そういや隣の子はまだ体調悪いの?」

「いや、もう良くなったよ。今また少し鼻風邪っぽいけど」



 話しながら箱の中身を見る。

つやつやに光るチョコレートでコーティングされたザッハトルテだ。

端にドライオレンジがちょこんと刺さって、天の川みたいな金粉の筋もついている。

 父は一体こういう技術をどこで学んでくるのか。手先の器用さに感心よりも呆れる。

 ちょうど良いタイミングで真雪の話が出たから、意を決して言ってみた。



「ダディ、あのさぁ、ここって人を雇える余裕ある?」

「……汐、会社辞めたの?」



 怪訝な表情であたしの目の前にあるタバコに手を伸ばす。



「あ!? 違う違う! あたしじゃなくて、隣の部屋の子がさ、仕事探してるから。
ちょっと前の仕事うまくいかなかったみたいだから、リハビリ的に働くならここがいいかなって。接客の経験はあるみたいだよ、レストランでバイトしたことあるって言ってたし」



 内心、ドキドキしながら伝える。父に何か頼みごとをするのはほとんどないから緊張する。

キッチンの中でタバコに火をつけてからゆっくりと顔を上げる。

その無表情な顔が更に緊張を増幅させた。



「ふうん。まぁ人手が増えるのは助かるけど」

「……じゃあ雇ってくれる?」

「まだ本人を見てないからわからないよ。面接はちゃんとしなきゃ」

「なんだよ! でもすげえいい子だから! あたしが保証する!」



 真雪は本当にいい子だ。一度でも会えば父も気に入ってくれる。

そう思いながら力説すると、目の前にいる父の表情も緩んだ。



「そうなの? じゃあ楽しみにしてる。来週の月曜日、バーを開ける前のほうがいいかな、4時に店に来てくれるように伝えてくれる?」

「平日じゃん、あたしまだ仕事中だよ」

「……汐が面接受けるわけじゃないんだから、来なくていいよ」

「えー、心配。ねぇ、絶対雇ってやってよ、本当にいい子なんだよ」

「はいはい」



 カウンターから身を乗り出すように念を押す。それを面白がるように父が笑った。


晩ご飯を食べていけばいいと言う父を「同居人が作ってくれてるから」と断って店を出る。

建物の裏手にある外階段から2階に上がる。

 実家の鍵を使うのは本当に久しぶりだった。ガチャリと音がして開くと、懐かしい匂いがした。


 玄関を進むと目の前にはトイレのドアがあってその右にはユニットバス、左側にはだだっ広いリビングダイニングがある。

 リビングには入らずにそのまま3階へ繋がる階段を上がって、父の部屋を通り過ぎて自室に入る。

 実家の部屋は今のアパートよりも広い。

ベッドも学習机もテーブルも本棚も、大きな家具を置いてもまだ隙間がある。

あたしはそれがどうしても嫌だった。

 できれば部屋はもので埋めつくしたい。何か欠けてもすぐに気づかないくらい、たくさんのもので埋まっていてほしい。

じゃないと、寂しくて泣きそうになる。

こんな変な癖がついたのは、母親が出て行ってからだった。



本棚から10冊ほど漫画を抜き取るとカバンの中に押し込んだ。

そのまますぐに部屋を出る。

隙間のあるこの部屋が、自分の部屋じゃない気がして落ち着かない。

どうしても、昔母親がいた部屋を思い出してしまう。

あたしの部屋は、あのボロいアパートだ。
三人で暮らしていた頃のような、古めかしい感じの。



 外階段を降りて車道に面した場所に出ると、店から父が出てきた。



「もう帰るの?」

「うん、漫画取りに来ただけだから。ケーキ、ありがとう」

「どういたしまして」

「面接の件、お願いね」

「わかってるよ。もう暗いから気をつけて」



 手を振って、駅の方面に向かって歩く。

チェーン店の居酒屋やカフェが並ぶ繁華街を抜けて駅前のロータリーに着いた。

 そこをさらに通り過ぎようとしたとき、見覚えのある黒いセダンがハザードランプをつけて停まっていた。

 なんとなく気になって、通り過ぎる瞬間に運転席のほうを見る。

やっぱり石川さんだった。



手を振ろうとしたところで、駅から足早に出てきた女の人が助手席に乗り込んだ。

助手席のシートベルトを締めようとしているのか、キスをしているのか、石川さんが女の人に覆いかぶさるように背中を向ける。


 ドクンと心臓が跳ねた。歩く速度を早めて駅の中へ入る。

 ーーまぁ、ああいうスペックの高い男、1ヵ月も放置してりゃそうだよな。

付き合っているわけじゃないんだから、あの助手席にあたし以外の人が乗ってもおかしい話じゃない。
何しててもいいさ、別に。

 言い訳と達観した感想が頭の中で駆け巡る。



 振り切るようにして電光掲示板を見る。電車は出発してしまったばかりで、まだ当分来そうにない。










「ただいま」



 玄関を開けると、パタパタと短い距離を真雪が走ってきた。



「おかえり」



 何も知らない無垢な笑顔に、暗い気持ちが少し癒された気分になる。

ブーツを脱ぐ前に白い箱を手渡してやる。



「はい、おみやげ」

「なに?」

「ケーキ」

「ケーキ?」

「うちの父親がクリスマスだからって」

「えー、すごい」



 箱の中身を見ようと持ち上げている真雪の横をすり抜けて部屋に入る。

テーブルには晩ご飯のミートソーススパゲティとスープが並んでいた。



「早えーな、もう作ったの」

「うん、あ、もしかしてまだお腹空いてない?」

「いや。やっぱり帰ってきて部屋が暖かくてご飯できてるっていいよな」



 コートを脱いで、キッチンで手を洗う。

それから、実家から持ち出した漫画をバッグの中から出した。

カラーボックスの中はすでに別の漫画で埋まっていたから、その上の「大事なものボックス」の隣に重ねて置いた。

 ケーキの箱を冷蔵庫にしまい終えた真雪が、いつものようにテーブルとベッドの間に座った。



「漫画持ってきたの?」

「うん」

「後で読んでいい?」

「いいよ。少女漫画だけど」



 「いただきます」と言い合って、フォークにスパゲティを巻き付ける。


 夕方のニュースでは、クリスマスイルミネーションの特集が流れていた。

 そういや、あたしから食事に誘った日は都合が悪いと断られていた。

今日の人と約束があったからなんだろう。こういうイルミネーションを見に行ったりするのだろうか。

居酒屋じゃなくてちゃんとしたところで食事をしたりして……。

 ぐっと喉が詰まる。



「ーー汐?」



 不意に呼ばれて顔を上げる。真雪が不安そうにこちらを見ている。



「まだ食欲ない?」

「……いや、大丈夫」



 付き合っているわけじゃないんだから、裏切られたと思うのは間違っている。

ただ、勘違いしただけ。好かれていると思って浮かれていただけ。

 ーーアホらしい。また同じ過ちを繰り返すところだった。高校の頃から進歩ねえな。


古くて苦い思い出を思い出して、苦笑する。

まぁ痛い思いをしなかっただけ、今回の方がマシか。



「真雪さー、仕事探してるじゃん。あれからいいとこあった?」



 気を取り直すようにフォークを口に運びながら話しかける。

今日はそのために外に出たんだ。あたしのことは後回しだ。



「んー、うーん……。ごめん、まだ」

「じゃあ、うちの父親がやってるカフェで働かない?今日、その話してきた。真雪、ファミレスでバイトしてたって言ってたし」

「え、……いいの?」

「まぁ面接あるし、まだ確定じゃないんだけど。あ、面接も来週の月曜日って勝手に決めてきちゃったんだけど」

「うん、大丈夫。ありがとう」



 余計なお節介かとも思ったけど、真雪の笑顔を見たらそんな気持ちが吹っ飛んだ。

そして少しだけ、胸が痛くなった。




真雪が律儀に履歴書を書くというから、コンビニへ行くことにした。
 洗い物を済ませて靴を履く。


 明後日の石川さんとの食事は断ることにした。

こちらから誘っておいて申し訳ないけど、きっと心から楽しめる気がしない。

さっきの人がもし彼女なら、あたしと石川さんが二人きりで会っているのは嫌だろう。


 コンビニの中で、真雪から離れて酒とお菓子を選ぶ振りをしながらメールを打った。

送信完了の文字を見て、コートの中に携帯を突っ込む。


 履歴書を持って来た真雪にもお菓子を選ばせて、コンビニを出た。






 部屋に戻ってから、早々に履歴書を広げる真雪の横で缶ビールを開ける。

かなり久しぶりに見る様式が懐かしくて感動していると、真雪が生年月日を記入したところで声を上げた。



「あ、真雪、誕生日、この前だったの?」

「……うん」

「なんだよ、言えよ」

「でも俺、それどころじゃなかったし」



 生年月日の欄に記入された日付は、真雪が倒れてここで暮らすようになった日だった。

自分の誕生日に死にかけるだなんて、器用にも程がある。




「ちょっと遅くなるけど、どういうケーキ食べたい? 明日買ってくる」

「ケーキは汐のお父さんが作ってくれたのあるでしょ」

「バーカ。あれはクリスマスケーキ」

「そんなに食べれないよ」

「じゃあプレセント。何がいい?クリスマスの分も合わせて2つ買ってやる」

「えぇ?」



 ペンを持ったまま、真雪の視線が空中を泳ぐ。

そのまま下がってあたしの視線とぶつかった。

なにか言いたそうに口を開く顔を見て一瞬、ドキッとした。



「ーーこれ」



 声の後、真雪の体が動いてベッドに乗る。

手に持っていたのはあたしがゲーセンで取ったやたらとでかい犬のぬいぐるみだった。

だいぶ前に取ったものだからくたびれている。



「……あ、それ?そんなもんでいいの?」

「うん、これ抱き枕みたいにして寝ると落ち着くから」


 ベッドの上で、真雪がぎゅっとぬいぐるみを抱きしめる。

そういや、ここに来た日から抱いていた。




「新しいのじゃなくていいの?」

「このくたくた具合がいいんだよ」



 ぬいぐるみを膝に乗せたままベッドを降りて、履歴書の続きを書き始める。

家庭環境がそうさせたのか、つくづく無欲だ。だからこそ何かしてあげたくなる。



「もう1個のプレゼントは?」

「えぇ、俺、今集中して書きたいのに」



 真雪がペンを置いて顔を上げながら笑う。

また少し唸りながら視線を動かして、今度はあたしの手元を見た。



「じゃあ、それ」

「……どれ?」

「酒、飲んでみたい」



 笑いながら指をさした先は、あたしの飲みかけの缶ビールがあった。

とっさに履歴書を見る。


「19になったばかりじゃねーか」

「うん」

「未成年の飲酒は法律で禁じられてんだよ、知らねえの?」

「汐なら見逃してくれるかなって」

「なんで犯罪の片棒担がせようとしてんだ」

「でも汐は絶対ハタチ前に飲んでたでしょ?」

「うっせ。そんな昔のこと覚えてねえよ」



 残っていたビールを勢いよく飲み干して缶を握りつぶす。

声を出して笑う真雪の頭を、缶を捨てるついでにすれ違いざまに小突いてやる。



「20歳になったら居酒屋でも連れてってやるから、他のにしろ」

「でもいきなり言われても思いつかないから、宿題にするね」

「おー」



 キリのいいところまで書きたいという真雪の横で、実家から持ってきた漫画を読む。

視界の端で、ときどきなにか考えるように真雪が首を傾げる。

きっと志望動機でも書いているんだろう。

手伝ってやりたい気持ちもあるけど、それこそお節介な気がしてやめた。







 いつもはすぐに連絡が来るのに、石川さんから返事が来たのは25日の昼だった。

「わかった」と一言だけのメールにまた少しもやもやする。

ドタキャンしたせいで失望されたのかもしれない。

それとも昨日のクリスマスイヴまで、誰かと一緒だったのかもしれない。
だから返信が遅れたのかもしれない。



 真雪に、今日の予定がなくなることは言っていない。

携帯を持っていないから連絡するすべもない。

あたしの分のご飯はいらないと言ってしまったから、今日は久しぶりにコンビニ飯だ。

それとも真雪を連れてどこか食べに行こうか。
せっかくのクリスマスなのにコンビニじゃ味気ない。


 一緒にご飯を食べるなら、やっぱり気兼ねなくいられる相手のほうがいい。

彼女がいるかもしれない石川さんより、真雪のほうがずっといい。




 終業時間になって、足早に会社を出る。

もしかしたら真雪がすでになにか買っているかもしれない。

あいつのことだ。1人だとコンビニおにぎり一つとか、適当に済ませようとするに違いない。

週の予算内だったら何を買ってもいいって言ってあるのに、いちいちあたしの顔色をうかがってくる。

 体調が悪かったときはあたしが面倒を見ていたけど、今は家事のほとんどを真雪が担っている状態なんだから遠慮することないのに。




 走って駅まで向かい、電車に揺られて最寄り駅に到着する。そこからさらに家まで走る。

途中、雪で滑って何度か転びそうになって、ようやく家の近くのコンビニに差しかかった。



「汐!」



 コンビニを通り過ぎたところで名前を呼ばれて、振り向く。

声がどこから聞こえるのかわからなくて、ぐるぐると回ってしまった。


 車のドアが閉まる音を聞いて、コンビニの駐車場の方を向く。

黒いセダンだ。

中から出てきた人を見て戸惑う。
……そういうサプライズは望んでいない。



「……石川さん」



 なんでここにいるんだ。仕事で来たなんて言われたら絶対に信じない。こんな住宅街に、用なんてあるはずがない。



「久しぶり」



 目の前まで来て何事もなく笑うその顔を見て、一瞬怖いと思ってしまった。

直前に断ってしまって、嫌味のひとつでも言われると思っていたから。

でも目の前の石川さんは、何事も無かったように目の前に立っている。



「……どうしたんですか」

「ん? いや、食事行けないって連絡来たから体調悪いのかなって心配して」

「あ」


 張り付いたような笑顔。

一瞬感じた恐怖が勘違いじゃないと悟る。

これは絶対怒っている。

やっぱり自分から誘っておいてドタキャンはまずかったか。




「そういや、いとこさんはまだいるの?」

「……はい」

「だから今日、行けないってこと?」



 ここで真雪を言い訳にしたくなかった。

かと言ってあたしが体調不良だと言ってもきっと信じてもらえない。

具合悪い人間が、さっきまで走っていられるわけがない。



「……この前、彼女といるのを見て」

「彼女?」

「一昨日、石川さんと女の人が車に乗ってるのを見て」

「あぁ、あれ彼女じゃないよ」



 あれ、と言う言葉が引っかかる。

1ヶ月くらい前に聞いていたら、確実に喜んでいた言葉なのに今は全然響いてこない。

誰かに対して、こんな物言いをする人だったか。

目の前の石川さんには違和感しか覚えない。



「外だと寒いし、車の中で話そうか」

「…………」


 これ以上話すこと、ある? このまま車に乗ったら今日はもう帰って来られない気がする。

目の前の石川さんが、誰か知らない人に見える。

会わない間に性格が変わったとか?
……そんなこと、あるわけない。





「汐?」

「行かない。食事はまた仕切り直させてください。今日は何も準備してない」



 頭を下げて背を向ける。

逃げようとしたところで腕を掴まれて、そのまま抱きしめられた。

体を剥がすようにもがく。



「なんで?」



 低くて冷たい声が降ってきた。

彼女じゃないと言われても信じられない。

あの日、助手席に覆いかぶさるように見せた背中が、鮮明に思い出される。

 複数の人と関係を持って天秤にかけるのは別に構わない。

だけど、あたしは値踏みされたくない。複数いるうちの1人になりたくない。

 黙っていたら、腕の力が緩んだ。
その隙に離れる。

お互いがじっと顔を見据える。流されるな。
もう子どもじゃないんだから。




「あたし、石川さんとご飯食べるの楽しかったです。ちょっと好きになりかけてたかもしれない。でもあたし以外にもそういう人がいるってわかったら、なんかもういいやってなっちゃった」

「この前のは彼女じゃないのに?」



 石川さんが、少し悲しそうな顔になった。

初めて見るその表情に、一瞬ほだされそうになって目をそらす。



「うん。彼女じゃないのに。でも石川さんと一緒にご飯食べに行く人の中には、彼女になりたいって思ってる人もいるかもしれないから、もう2人きりで会うのはやめます」

「…………」



 一昨日、あの場面を見なきゃよかった。

石川さんの車に何度も乗らなきゃよかった。

そうしたら車に気づかないまま通り過ぎて、今日もきっと、何も知らないまま前のように食事をしていた。


 あたしの決意に、石川さんは何も言わない。

風が吹いて粉雪が激しく舞った。

散らばる髪を抑えようと腕をあげると、その手を掴まれた。


そのまま引っ張られて唇が重なる。




「……汐は、俺のこと好きじゃなかった?」



 弱々しい声とは真逆に、手を掴む力が強くてほどけない。

引けば引くほど手首に力が込められて、腰だけ引けた体勢になる。



「……石川さん、手、痛い」

「ねえ」



 普段と違う態度に身震いする。

余裕のない顔。ここで好きじゃないって言ったら殴られそうだ。

けじめをつけたほうがいいのはわかっているけど、次に何をされるか怖くて言葉が出てこない。

目も合わせられない。






「ーー嫌がってますよ。離してください」


 突然、後ろから声が聞こえて首だけで振り向く。

ジャケットのポケットに両手を突っ込んだ真雪が立っていた。

目が合って驚かれる。





「汐?」



 第三者の登場で緩んだ腕を振り払って、逃げるように真雪の後ろに隠れた。

その一瞬で察知したのか、真雪があたしの立っていた位置まで詰めた。

睨み合っているのか2人とも何も言わない。

すぐに石川さんがあたしたちから離れた。

車に乗り込む音がして、乱暴に車道へ出ていく。



「行ったよ」

「……ありがとう……」

「何あれ、ナンパ? 汐の知ってる人?」

「……知ってる人」

「ふうん。ーーあれ、汐、今日はご飯いらないんじゃなかったっけ。帰ってくるの早いね。俺なにも作ってないよ」

「いいよ。コンビニ行こう」



 掴まれた手首がまだ痛い。

服の上からだったから痕はついてないにせよ、捻挫のようなじわじわとした痛みが残っている。

さすりながら店に入ると、真雪があたしの手を掴んだ。



「痛いの?」

「うん、ちょっとだけな」



 真雪の指がコートの袖口から手首を撫でる。

雪道を歩いてきたとは思えないくらい高い体温に驚く。

本人はなんとも思っていないんだろうけど、触り方が妙になまめかしくて思わず手を引っ込めた。





「恥ずかしいからヤメロ」

「え、ごめん」

「早く買って帰るぞ、腹減った」

「うん」



 真雪が来てくれて助かった。

あのまま手を掴まれていたら折り合いがつかなくて、そのままずるずる流されていたかもしれない。

 ……キスをされたところ、真雪は見たんだろうか。見られてたら、嫌だな。

 うつむいて、無意識に唇を噛む。









「それは、汐が悪いんじゃない?」

「……だよな」



 せっかくのクリスマスなのに結局コンビニ弁当を食べながら、さっきの事の顛末を真雪に報告すると、呆れたような声が返ってきた。



「ドタキャンはダメでしょ。大人なんだから」

「うん、いや、わかってるんだけど、言い訳させてほしい。
真雪はさ、ちょっと気になってる人が他の男と一緒に歩いてるの見てから、何事もなかったようにご飯食える?」

「えぇ? そりゃ動揺するかもしれないけど……約束してたなら行くよ」

「でも絶対気まずいよな?」

「そうだろうね。ご飯食べた後、聞くかもしれないし」

「だよな!?」

「でも汐はドタキャンだもんね」

「…………」

「ドタキャンはダメだよ」



歳下に正論を突きつけられて何も言えずに縮こまる。

いや、わかってるんだよ。自分から誘ったんだから、ドタキャンがダメなことくらいわかってるんだけど……。

真雪の言うように、ちゃんと食事ができる気がしないんだ。

気になって絶対うわの空になって、相手に気を遣わせて結果楽しくなくなるんだ。




彼女じゃないなんて言われて、手放しで喜んでこの先付き合えるか?

絶対無理だろ。どこかで絶対、影がちらつくに決まっている。



「もう連絡しなくていいの?」



プラスチックスプーンを噛みながら考えていると、真雪が顔を覗き込んできた。

不器用な姉の恋愛相談に付き合っている弟みたいだ。



「……いいんだよ。誰かと男取り合うのってめんどくさいし。そこまで好きかって聞かれたらもうよくわかんないし」



強がりじゃない。思ったより落ち込んでいない。

むしろ仕事がひとつ片付いたように清々しい。



「真雪が来てくれて助かった。あのまま腕引っ張られてたら怖かった」

「……そういや手首大丈夫?」

「ん、うん」



本当はまだ少し痛いけどまた変に触られないように、わざと手首をプラプラ動かしてみせる。

ほうっとため息をついて真雪が笑った。



「汐もダメだけど、痛がることしたその人はもっとダメだね。声かけてよかった」

「お前、さっきからあたしのこと、すげえダメダメ言ってくるじゃん」




その夜、こっそり風呂場に持ち込んだ携帯から、石川さんの連絡先を全て消した。

あんな終わり方をして少し罪悪感はあったけど、きっともう会わない。

 風呂から上がって飲み物を飲もうと開けた冷蔵庫の中に、父からもらったケーキが半ば置物のように置いてあった。

 25日が終わるまで、あと3時間だ。



「真雪、ケーキ食う?」

「今から?」



 ベッドを背もたれにくつろぎながらテレビを観ていた真雪が、驚いたように体を起こした。

 ケーキの入った白い箱を掲げる。



「あぁ、そういえば。食べる」








 父が作ったケーキを真雪と囲む。


「俺、ホールケーキ食べるの初めて」

「小さいけどなー」


 綺麗な切り口にするために包丁を温めながら、箱からケーキを取り出す。

 そうか、ホールケーキ食うの初めてなのか……。
いや、あたしも丸ごとはないけど。



「真雪、このままフォーク刺せ」

「え?」

「ほら、やっちまえ、ファーストフォーク」



 コンビニの短いプラスチックフォークを手渡してやる。

にやにやと笑うあたしに戸惑いながら、意図を汲んだのか、恐る恐るチョコレートの表面にフォークを入れていく。

パキ、とコーティングされたチョコレートにヒビが入ってそのまま一口、頬張る。



「……うまい?」

「うん!」



 笑顔が眩しい。

19歳とは思えない純粋さ。

男女のドロドロとか一切無縁そう。純度100%の天使か。
このままでいてくれと切に願う。



「んじゃ切るよ」

「はーい」



 丸いケーキをきっちり半分に分ける。

ただ切っているだけなのに、目を輝かせながらじっと見つめている真雪がおかしかった。

誰かとクリスマスを過ごすのは本当に久しぶりだった。

外食もプレゼントもないけど、ただケーキを食べただけだけど、何もしないよりはマシだった。

 小さな子どものようにケーキを味わう姿を見ながら、今日この日に真雪がいてくれてよかったと本当に思う。