帰り道の自宅までの道のりはいたって平凡だ。大通りをまっすぐまっすぐ走って、老舗の和菓子屋さんのところで左折、それから信号で右折。住宅地に入って、通行人に気を付けながら駐車する。もう何年も乗った愛車は意外と快適なままで、すんなりと駐車スペースに収まる。目をつぶっていてもできそうというのは大げさだが、そのくらい、慣れ親しんだ愛車と街並み。
車を留めてから玄関のドアを開けるまで30秒。これは父も同じで、エンジン音が切れてからカウントダウンするとほぼこの時間で玄関の扉は開く。母もこの音を聞いて「おかえり」を言う準備をしているに違いない。
父のいない今夜は母親と二人きりのバースデーナイトだ。33歳。せいぜいおいしいものを食べよう。
そう思って玄関のドアを開けるとトビウオを持った母が笑っておかえり、と言って出迎えた。
何?という顔をした由香に母は、目を細めてふふふと笑い、魚に似つかわしくない羽をピンと伸ばして見せた。
玄関には、父のものとは違う大きな男性の靴があった。おかしい。今夜は父は県の医師会の集まりで遅くなるはずなのに。
「どういうこと?」
リビングの奥から唐突に顔を見せたのは前田くんだった。
「なんで?」
母と前田くんは、びっくりしたでしょう?と言うように笑っていた。彼の存在に驚くと同時に、母の無邪気な顔にも驚いた。初めてとは言わなくても、かなり久々のことに思えた。
あらゆることがまだ理解できないままでいる由香に、彼と最後に会った時と変わらない健康的な笑顔のまま言った。この街を離れてからの数か月、何も変わりなかった、というように。
「あの島のあたりってトビウオが特産でね、すごくおいしくて。これはやっぱり由香さんに食べさせてあげたいなって。サプライズで送ろうと思って住所を聞きたくて電話したら、今日が誕生日だって言うから。宅急便に合わせて遊びに来たんだ。みんなで誕生日パーティーしたほうが楽しいかと思って。いいでしょ、魚。キラキラしたものが好きだって言ってたし」
目の輝きが違うよ、と彼はもう一度トビウオを見せた。
由香の口からは言葉が出なかった。わずかに漂う潮の香りと生臭さに動揺と可笑しさとが入り混じって、その顔は若干ひきつっていたと思う。
「誕生日プレゼントが魚って、どんなセンスなの」
「他にいないだろう、こんな男」
彼が自分で言って口を大きく開いて笑って見せた。揃った歯並びが惜しげもなく見える。まぶしい、と、由香は思った。思わず俯いて、目を細めてしまうほど、まぶしい、と。
初めてその笑顔を見たときと同じように。
「正式なリクエストは、来年、ぜひ」
その言葉で思い出す。博樹との誕生日プレゼントのこと。そう、いつもリクエスト式だった。ピアスとか、香水とか簡単に希望を伝えておいて、あとは彼のセンスにお任せだった。
それを思い出しながらも、来年、という彼の言葉に由香は返事ができないでいた。心はまだ騒がしかった。半分くらいしか理解できないままだった。
隣にいた母は静かに、でもとても上機嫌な様子で微笑んでいた。父がいたら、同じような顔をして、この光景を見守っていただろう。ありふれた日常のようで貴重な時間、というのを見た気がする。でもまだ未来はぼやけていて、よくわからなくて、由香は言った。
「来年、いてくれるのなら」
口にしてみて、声がわずかに震えていたことに気づいた。未来に約束が欲しくて。確認するのが怖くて。
そんな様子に気づいたか気づかないか、わからなかったけど、彼はごく自然に言った。
「とりあえず明後日戻る予定。でもまた帰ってくるよ、半年後。」
親父も離島を志願している若者を鍛えるって張り切ってたし、俺はさっき大沢先生と事務長にしっかりお願いしてきた、と彼は笑った。
太陽みたいに明るく眩しく。嘘のかけらもない彼の笑顔。
また見たいと思った。
そう、この感じ。私は天井にぶつかった。私は、あなたを忘れられなくなった。
そんな素敵な気持ちが、今、ここにあることに気づいた。確かに。
「ありがとう。やっぱりプレゼントは一緒に買いに行きたいわ。あなたはセンスがなさそうだから」
トビウオがまた目に入って、みんなで笑った。
それに、また彼と並んで歩きたい、と思った。この街も、たまには旅行なんかで知らないところへも、いろんなところへ、一緒に。
「離島にいるうちにトビウオをまた送るよ」
笑って言う彼の顔を見て、でも自分の顔を見られるのが恥ずかしくて少しだけ俯いて由香は言った。
「本当に、あなたみたいな人、他にいないわ」
同時に、博樹の代わりにはならない、と思った。
だってこの人の代わりもどこにもいない。
「ね、ワイン開けて飲もう。それから、お父さんの大事にしてた大吟醸と、あとで高いブランデーも出しちゃおう。お母さん、ごちそう、あるんでしょう?」
母はもちろん、と笑った。デザートまでちゃんと、由香の大好きなものばかりよと言って。
父がいない部分は、今ここにいるメンバーがそれぞれ少しずつ補っていたようだった。
そうやって満たしていく。人は何かが欠けても、多少時間がかかったとしても、ちゃんとうまく調整していく。それを由香は誤魔化すみたいで嫌いだった。誤魔化すのは、嘘をつくのと同じようなものだと思っていたから。
でも今は、いいことだと思えた。失ってもまた手に入れてゆく、まるっきり同じでなくても必要なもの、大切な、かけがえのないものをきちんと見つけて手に入れて、そしてまた進んでいく人間のそのたくましさを、すばらしいと。心から。本当に。
BGMは母のセレクトでなぜかベートーベンの第九、歓喜の歌。これからお正月でも来そうなおめでたい雰囲気である。
室内には子どもの頃と変わらない、懐かしいビーフシチューの香りが蒸気とともに混ざって立ち込めていた。牛肉とセロリと人参と玉ねぎをトマトと何時間も煮込む、母の歴史あるレシピだ。夏でも冬でもお祝いはいつだってこれと決まっている。
それからトビウオの塩焼きも並んで、ごちゃまぜでよくわからないながらも豪華な食卓だった。
やがてリビングにポンッと気持ちよくシャンパンが開く音が響く。楽しい時間が始まる、幸せな音だった。
車を留めてから玄関のドアを開けるまで30秒。これは父も同じで、エンジン音が切れてからカウントダウンするとほぼこの時間で玄関の扉は開く。母もこの音を聞いて「おかえり」を言う準備をしているに違いない。
父のいない今夜は母親と二人きりのバースデーナイトだ。33歳。せいぜいおいしいものを食べよう。
そう思って玄関のドアを開けるとトビウオを持った母が笑っておかえり、と言って出迎えた。
何?という顔をした由香に母は、目を細めてふふふと笑い、魚に似つかわしくない羽をピンと伸ばして見せた。
玄関には、父のものとは違う大きな男性の靴があった。おかしい。今夜は父は県の医師会の集まりで遅くなるはずなのに。
「どういうこと?」
リビングの奥から唐突に顔を見せたのは前田くんだった。
「なんで?」
母と前田くんは、びっくりしたでしょう?と言うように笑っていた。彼の存在に驚くと同時に、母の無邪気な顔にも驚いた。初めてとは言わなくても、かなり久々のことに思えた。
あらゆることがまだ理解できないままでいる由香に、彼と最後に会った時と変わらない健康的な笑顔のまま言った。この街を離れてからの数か月、何も変わりなかった、というように。
「あの島のあたりってトビウオが特産でね、すごくおいしくて。これはやっぱり由香さんに食べさせてあげたいなって。サプライズで送ろうと思って住所を聞きたくて電話したら、今日が誕生日だって言うから。宅急便に合わせて遊びに来たんだ。みんなで誕生日パーティーしたほうが楽しいかと思って。いいでしょ、魚。キラキラしたものが好きだって言ってたし」
目の輝きが違うよ、と彼はもう一度トビウオを見せた。
由香の口からは言葉が出なかった。わずかに漂う潮の香りと生臭さに動揺と可笑しさとが入り混じって、その顔は若干ひきつっていたと思う。
「誕生日プレゼントが魚って、どんなセンスなの」
「他にいないだろう、こんな男」
彼が自分で言って口を大きく開いて笑って見せた。揃った歯並びが惜しげもなく見える。まぶしい、と、由香は思った。思わず俯いて、目を細めてしまうほど、まぶしい、と。
初めてその笑顔を見たときと同じように。
「正式なリクエストは、来年、ぜひ」
その言葉で思い出す。博樹との誕生日プレゼントのこと。そう、いつもリクエスト式だった。ピアスとか、香水とか簡単に希望を伝えておいて、あとは彼のセンスにお任せだった。
それを思い出しながらも、来年、という彼の言葉に由香は返事ができないでいた。心はまだ騒がしかった。半分くらいしか理解できないままだった。
隣にいた母は静かに、でもとても上機嫌な様子で微笑んでいた。父がいたら、同じような顔をして、この光景を見守っていただろう。ありふれた日常のようで貴重な時間、というのを見た気がする。でもまだ未来はぼやけていて、よくわからなくて、由香は言った。
「来年、いてくれるのなら」
口にしてみて、声がわずかに震えていたことに気づいた。未来に約束が欲しくて。確認するのが怖くて。
そんな様子に気づいたか気づかないか、わからなかったけど、彼はごく自然に言った。
「とりあえず明後日戻る予定。でもまた帰ってくるよ、半年後。」
親父も離島を志願している若者を鍛えるって張り切ってたし、俺はさっき大沢先生と事務長にしっかりお願いしてきた、と彼は笑った。
太陽みたいに明るく眩しく。嘘のかけらもない彼の笑顔。
また見たいと思った。
そう、この感じ。私は天井にぶつかった。私は、あなたを忘れられなくなった。
そんな素敵な気持ちが、今、ここにあることに気づいた。確かに。
「ありがとう。やっぱりプレゼントは一緒に買いに行きたいわ。あなたはセンスがなさそうだから」
トビウオがまた目に入って、みんなで笑った。
それに、また彼と並んで歩きたい、と思った。この街も、たまには旅行なんかで知らないところへも、いろんなところへ、一緒に。
「離島にいるうちにトビウオをまた送るよ」
笑って言う彼の顔を見て、でも自分の顔を見られるのが恥ずかしくて少しだけ俯いて由香は言った。
「本当に、あなたみたいな人、他にいないわ」
同時に、博樹の代わりにはならない、と思った。
だってこの人の代わりもどこにもいない。
「ね、ワイン開けて飲もう。それから、お父さんの大事にしてた大吟醸と、あとで高いブランデーも出しちゃおう。お母さん、ごちそう、あるんでしょう?」
母はもちろん、と笑った。デザートまでちゃんと、由香の大好きなものばかりよと言って。
父がいない部分は、今ここにいるメンバーがそれぞれ少しずつ補っていたようだった。
そうやって満たしていく。人は何かが欠けても、多少時間がかかったとしても、ちゃんとうまく調整していく。それを由香は誤魔化すみたいで嫌いだった。誤魔化すのは、嘘をつくのと同じようなものだと思っていたから。
でも今は、いいことだと思えた。失ってもまた手に入れてゆく、まるっきり同じでなくても必要なもの、大切な、かけがえのないものをきちんと見つけて手に入れて、そしてまた進んでいく人間のそのたくましさを、すばらしいと。心から。本当に。
BGMは母のセレクトでなぜかベートーベンの第九、歓喜の歌。これからお正月でも来そうなおめでたい雰囲気である。
室内には子どもの頃と変わらない、懐かしいビーフシチューの香りが蒸気とともに混ざって立ち込めていた。牛肉とセロリと人参と玉ねぎをトマトと何時間も煮込む、母の歴史あるレシピだ。夏でも冬でもお祝いはいつだってこれと決まっている。
それからトビウオの塩焼きも並んで、ごちゃまぜでよくわからないながらも豪華な食卓だった。
やがてリビングにポンッと気持ちよくシャンパンが開く音が響く。楽しい時間が始まる、幸せな音だった。



