科学が発展して便利になって、移動もスムーズになって、世界はぐんと近くなった。東京だって離島だって飛行機であっというまだ。日本国内はもちろん、海外にいたって顔を見て会話をすることも可能である。
それでも、それぞれが同じ気持ちでなければ、耳元だけの会話だって成立しない。
「連絡とってないんですか?」
外来の診察を終えて、事務作業を少ししようかというときだった。お疲れ様というよう綿貫さんがコーヒーを持って来てくれて、その横で三城ちゃんが言った。
「だって別に話をすることもないし」
「なんでもいいじゃないですか、最近どう?とか、今日の夕飯何食べるの?とか」
「聞いてどうするのよ」
彼だって忙しいでしょうから、と真顔で由香が返すと、三城ちゃんが、そりゃ、そうですけど……と悲しそうにつぶやき、横にいた綿貫さんがまるで鉄の女ね、なんて言う。
相変わらずの二人の会話を流して、由香は再びパソコンに視線を向けた。マウスをいじるカチ、カチという音が静かな診察室に響く。
前田くんがこの街を離れてもうすぐ四か月になる。最後に会ったときに着ていたコートはもういらなくて、明るい色の洋服を着たくなるような季節になっていた。
自分の日常は変わらないのに、なんだかつまらない感じはしていた。物足りない、というのだろうか。でも進学や卒業のたびに仲良しの友人たちと離れ離れになったときみたいに、そのうちこの状況に慣れていくのだろうけど。
元気だったらいいな、と思う。彼自身も、彼の父親も。離島は不便だったり、大変だったりすることも多いだろうけど、彼の人柄ならきっと目の前のことを受け入れて、そして彼自身もまた受け入れられて、楽しくやっているのではないかと思う。
あの明るい笑顔を思い出す。惜しげもなく見せられる揃った歯並び。気持ちよくお酒を喉に通す横顔。
会いたくないわけじゃない。もしもこの仕事が終わって、突然、彼が現れて、食事に行こうと誘ってくれたら、迷うことなく首を縦に振る。一緒においしいものを食べたい。それは博樹を想った気持ちとは違うけれど、何か大事な感情のようにも思えていた。
でも、何一つ未来の約束をしなかったことは間違いではないと思う。結婚という仕組みで相手を縛りたくない気持ちはお互いによくわかっている。
また彼はいい師や憧れの土地を見つけてどこかで仕事をするかもしれない。戻ってくるとは限らない。そのことは、仕方がないことだ。
ぼんやりとそんなことを考える由香の様子を見て何を思ったのか、三城ちゃんが診察室を片付けながら言った。
「まあ、私たちは由香先生が元気で幸せならいいですよ。それは別に結婚という形に限らなくても、ね」
働き者の三城ちゃんの手で磨かれる診察室は一日の仕事を終えてきれいに輝いていた。彼女もまた、一日をやり終えたすっきりとした顔つきで掃除をしていて、その奥のほうで書類を整理しながら綿貫さんも「同意」と言うように頷いていた。
変わらない、穏やかな日常。地方の個人の産婦人科医院。それでもずっと自分を支えて、見守り、育ててくれた大事な場所。そしてここにいる親しい人たちの笑顔を見ながら、由香は言った。
「励ましてくれてありがとう」
「励ましじゃないですよ、ほんとです。私、由香先生と仕事できて嬉しいんですよ。先生、話しやすいし、なんでも教えてくれるし、すごく勉強になるし。他のスタッフもみんなそう言ってますよ」
綿貫さんも言った。
「私もそうよ。あの小さかった由香ちゃんと一緒に仕事できるようになるなんて、って。ちゃんと研修医終えてここに帰って来てくれたとき感激したんだから。」
何言ってるんだかと照れたように内心思いながら、二人の想いは明るいトーンの声から伝わってきて、もう一度ありがとうを言った。嘘のかけらもない、まぶしい笑顔。いつだって本物を見せてもらっていると思う。そんな三城ちゃんと綿貫さんの言葉に由香の胸が熱くなった。
自分が精いっぱいやっていきたこと。誠実に向き合ってきたこと。それを見ていてくれる人がいるというのは、なんて、ありがたいことなのだろう。でもきっと本当はみんな誰かが絶対に見てくれている。
そう思う、ありふれた週末の就業後のひとときだった。
それでも、それぞれが同じ気持ちでなければ、耳元だけの会話だって成立しない。
「連絡とってないんですか?」
外来の診察を終えて、事務作業を少ししようかというときだった。お疲れ様というよう綿貫さんがコーヒーを持って来てくれて、その横で三城ちゃんが言った。
「だって別に話をすることもないし」
「なんでもいいじゃないですか、最近どう?とか、今日の夕飯何食べるの?とか」
「聞いてどうするのよ」
彼だって忙しいでしょうから、と真顔で由香が返すと、三城ちゃんが、そりゃ、そうですけど……と悲しそうにつぶやき、横にいた綿貫さんがまるで鉄の女ね、なんて言う。
相変わらずの二人の会話を流して、由香は再びパソコンに視線を向けた。マウスをいじるカチ、カチという音が静かな診察室に響く。
前田くんがこの街を離れてもうすぐ四か月になる。最後に会ったときに着ていたコートはもういらなくて、明るい色の洋服を着たくなるような季節になっていた。
自分の日常は変わらないのに、なんだかつまらない感じはしていた。物足りない、というのだろうか。でも進学や卒業のたびに仲良しの友人たちと離れ離れになったときみたいに、そのうちこの状況に慣れていくのだろうけど。
元気だったらいいな、と思う。彼自身も、彼の父親も。離島は不便だったり、大変だったりすることも多いだろうけど、彼の人柄ならきっと目の前のことを受け入れて、そして彼自身もまた受け入れられて、楽しくやっているのではないかと思う。
あの明るい笑顔を思い出す。惜しげもなく見せられる揃った歯並び。気持ちよくお酒を喉に通す横顔。
会いたくないわけじゃない。もしもこの仕事が終わって、突然、彼が現れて、食事に行こうと誘ってくれたら、迷うことなく首を縦に振る。一緒においしいものを食べたい。それは博樹を想った気持ちとは違うけれど、何か大事な感情のようにも思えていた。
でも、何一つ未来の約束をしなかったことは間違いではないと思う。結婚という仕組みで相手を縛りたくない気持ちはお互いによくわかっている。
また彼はいい師や憧れの土地を見つけてどこかで仕事をするかもしれない。戻ってくるとは限らない。そのことは、仕方がないことだ。
ぼんやりとそんなことを考える由香の様子を見て何を思ったのか、三城ちゃんが診察室を片付けながら言った。
「まあ、私たちは由香先生が元気で幸せならいいですよ。それは別に結婚という形に限らなくても、ね」
働き者の三城ちゃんの手で磨かれる診察室は一日の仕事を終えてきれいに輝いていた。彼女もまた、一日をやり終えたすっきりとした顔つきで掃除をしていて、その奥のほうで書類を整理しながら綿貫さんも「同意」と言うように頷いていた。
変わらない、穏やかな日常。地方の個人の産婦人科医院。それでもずっと自分を支えて、見守り、育ててくれた大事な場所。そしてここにいる親しい人たちの笑顔を見ながら、由香は言った。
「励ましてくれてありがとう」
「励ましじゃないですよ、ほんとです。私、由香先生と仕事できて嬉しいんですよ。先生、話しやすいし、なんでも教えてくれるし、すごく勉強になるし。他のスタッフもみんなそう言ってますよ」
綿貫さんも言った。
「私もそうよ。あの小さかった由香ちゃんと一緒に仕事できるようになるなんて、って。ちゃんと研修医終えてここに帰って来てくれたとき感激したんだから。」
何言ってるんだかと照れたように内心思いながら、二人の想いは明るいトーンの声から伝わってきて、もう一度ありがとうを言った。嘘のかけらもない、まぶしい笑顔。いつだって本物を見せてもらっていると思う。そんな三城ちゃんと綿貫さんの言葉に由香の胸が熱くなった。
自分が精いっぱいやっていきたこと。誠実に向き合ってきたこと。それを見ていてくれる人がいるというのは、なんて、ありがたいことなのだろう。でもきっと本当はみんな誰かが絶対に見てくれている。
そう思う、ありふれた週末の就業後のひとときだった。



