すてきな気持ち

駅まで5分程歩いて、タクシー乗り場少し手前のところで立ち止まって「少し話していい?」と前田くんが言った。
こういうときの話題はあまりいいことじゃないときが多い。由香は、どうぞと言いながらも作り笑いっぽかったかなと思い、もう一度しっかり笑顔をみせた。
その笑顔につられるように微笑んだ前田くんは言った。

「初めて会ったとき、一人息子なんて由香さんは言ったけど」

その言葉に思わず由香は笑う。二人の頭の中にあるワンシーンは5月、初夏の日差しが強まってきたある晴れた一日で一致していた。
半年ほど前の時間がすでに懐かしくなっていた。七分袖のレースのワンピースでも蒸し暑かったのに、今では薄手だがコートを羽織るような季節だ。

「由香さんは男性とか女性とか性別なんて関係なく誠実に仕事に向き合っていて、家族思いで、人としてとても魅力的だと思う。」

その言葉とともにまっすぐな視線を向けられると、その奥にもっと他の意味がないのか探りたくなりそうだ。
そしてなんでこんな帰る間際の駅前で立ち話なんてするのだろうと思いながら、由香はありがとう、と軽く微笑んだ。

「実は来年から父親のところに行くことにしたんだ」

それはいきなり頭を殴られたかのような衝撃を与える言葉だった。由香はだだ目を丸くして彼を見た。
どうしてまた急に。
そんな由香の胸の内をわかりきっているように彼は言った。

「親父さ、ちょっと手術することになって。っていっても大したのじゃないんだけど。もうすぐ70歳だし。その歳なら色々出てくるよね、そりゃ。そう、それで離島で人手不足で困ってるらしくて、ちょっと、勉強も兼ねて行ってみようかなって。」

親父の仕事に興味もあったし、親孝行も兼ねてと笑う前田くんに由香はまだ戸惑った顔をして言った。

「長く行っちゃうの?」

由香の言葉に彼は少しだけ間をおいて、迷ったような顔をして言った。

「一年かな。親父が完全復帰したらまたこっちに戻ってくるつもり。」

なぜだかそれが永遠の別れのように思えてしまって、どうでもいいこと、には思えなかった。
そのことは何度かデートした昔の見合い相手の他愛ない話や、病院の同僚医師との雑談、職場の仲間の冗談のように聞き流すことはできなかった。

「必ず?」

そんなことを聞くなんて自分でも変な感じがしたけど、言葉が勢いよく飛び出した。聞かずにいられなかったのだ。彼の特別な人が他にいるかもわからないのに。自分が彼の特別ともわからないのに。
やや焦ったような由香に対して彼はつとめておだやかな口調で言った。

「もちろん、できればそうしたいと思ってる。大沢先生とか、いい先輩もたくさんいてここで学ばせてもらいたいこともまだまだあるし。この街も親しみがあるんだ。ただ、そのときにならないとわからないこともあるわけで、一年が半年になる可能性も、一年半になる可能性もあるし」

また雇ってもらえるかもわからないし、と付け足して彼は笑った。
その様子に、由香は、そう、と平然を装いながら静かに言葉を返した。ここが地元でも何でもない彼は、ここで長く暮らす理由はない。

素直でまっすぐな彼は、博樹とはやっぱり違った。博樹だったらこういうとき、嘘でも一年で帰るはずだと約束して、安心させただろう。でも彼は違った。安易に未来を約束しない誠実さもわかるつもりではあったが。

そして日常の変化を予感した体が何かを訴えていた。分け合った日常はごくわずかな時間で、たまにおいしいものを一緒に食べて、いくらか会話をしたくらいものもののはずなのに。由香自身の生活は変わるわけではないのに。自分は相変わらず同じ家で暮らして同じ場所で仕事をして、同じように暮らしていくのに。この虚無感は何だろう。

それは、置いて行かれる、という虚しさだ。短い夏休みに親しくなった親戚と別れるときに近いと思った。何日も一緒に遊んで、同じものを食べて同じ部屋で眠って、ぐっと身近で特別な存在に感じられるようになっていたのに、ある日お別れをしなくてはならなくて、ぱたっといなくなってしまう。たった数日の間に築き上げたものとそれを失うときの悲しさ。その短く貴重な夏休みが永遠に続けばいいと思った。どこを探してもこの街にその人はいなくなる、という現実。また会えるはずなのに永遠の別れみたいに思えた。

「残されるのって、こういう気持ちなのね」

思わず口にしてみて、寂しさに気づいた。

同時に、自分だけがつらいと思っていたことに気づく。
東京を去って、博樹を置いて、故郷に帰った自分だけがつらいのだと思っていた。でもきっと、そうじゃなかった。
親しい人の面影を失くした景色はこんなにむなしい。思い出の詰まった数々の場所は別の場所みたいに感じられる。駅前の大通りは、これから一人で歩くたびにつまらなく感じるだろう。彼がここから去ったあと、土曜日の夜、病院の駐車場で自分を待つ彼の姿を思い描いてしまうこともあるかもしれない。本物がそこにいたら、と想像することもあるかもしれない。それでも彼の見つめる先にはもう新しい土地が見えていた。彼の心は自分が行かなければならない場所にすでに向かっていた。

そして今、待っているとも帰ってきてとも言わなかった博樹の気持ちを、少しだけわかった気がした。
言えなかったのだ。こんなにきちんと未来と向き合っている人間に対して、待っているとか帰ってきてなんて、とてもではないけれど。頑張ってねと見送るしかできなかったのだ。
由香は言った。

「身体に気を付けて。応援している。お父様のご健康も、祈ってるわ」

友人として、笑顔で。彼はありがとうと言って手を振ってくれた。
互いに十分に大人なのに、まるで卒業式の高校生みたいに健全な別れだった。