大学生活を終えて地元の山形で研修医としてスタートを切るときに、六年間住んだ東京を離れた。
しばらくは学生時代の恋人であった博樹と遠距離恋愛というものをしていたが、結局地元で産婦人科医院を営む実家のことを考えて、彼とは別れた。お互いに嫌いな気持ちは一つもなかった。ただ二人で一緒にいても未来がないことが年齢を重ねるごとに見えてきていて、それぞれを求める気持ちは、かつて愛し求めあったほどではないことは確かだった。気持ちが薄れていった、と思いたくはないが、互いにすべてを捨ててまで貫くだけの愛がなかった、と言われればそうかもしれない。

父の病院を親戚の誰かが後を継いでくれたらとか、思い切って閉院することがあるかもしれないとか、自分に都合のいい希望ばかりを抱いて恋をした幼かった自分を、少しだけ愚かだと思う。世の中は思い通りにならないことのほうが多いというのに。

博樹と出会ったとき、家業のある家の一人娘だったということを忘れて恋をした。彼のその整った顔立ち、長い手足、控えめな笑顔、丁寧で穏やかな話し方、すべてに夢中だったのだ。やはり愚かかもしれない。それでも彼とのいろんな初めてに対してこの胸が強く反応したことを思い出して、冷静な恋なんて少しも本当の恋じゃない、と、声を大きくして言いたい。


徒歩30分、由香は車で10分程の道のりを通って出勤すると父はすでに白衣を着て準備万端だった。お見合いのことについては知っているとも知っていないともいう感じで、おはよう、と言っていつもと変わらない様子で緑茶を啜っていた。顔色の良さを見て安心する。

彼にとって私は一人娘であり一人息子なのだ。父は祖父やさらにその先祖にならってこの土地でたくさんの女性を、命を、見守ってきた。同じ土地に立って、同じ仕事をして、それでも生理痛も不妊の悩みも、妊娠の喜びも、同じ産婦人科医の父と同じように、できたらそれ以上にわかりたいと思っていた。この仕事を選んだことを後悔していない。三十二歳になってパートナーさえいない今の自分であっても。


ケーシーに着替えて肩までのセミロングの髪をまとめるとまた気持ちが引き締まる。
父とは別の診察室のほうに移ると最年長スタッフであり、ベテラン受付嬢(と、本人が言っている)の医療事務、綿貫さんと同年代の三城ちゃんという看護師の二人が準備を進めてくれていた。勤務表の都合で彼女らと仕事をすることが多いが、とても気持ちのよい人たちだった。綿貫さんに至っては由香が子どものころから交流のある人だったので安心感もあったし、三城ちゃんはわかりやすいというか素直な性格が魅力的で、裏はもちろん、表もなく、変に気を使ったりしなくてよくて、付き合いやすい人だった。だから忙しくも由香はこの土曜日の仕事が好きだった。

そして彼女たちもまた、この仕事が好きだと言ってくれていた。血色のいい頬で、瞳を輝かせて、精一杯目の前のことに取り組む。
きれいごとばかりではない仕事だが、それも含めて大事な仕事でやりがいがあり、喜びもあるのだと言う。そういう彼女たちの姿を見るたびに、仕事は人生において貴重なものだと由香はきちんと思えた。だからいつか、博樹と別れてこの仕事を選んだ自分を、本当に後悔していないと言える日はきっとくるはずと思う。
そう信じている。信じていないとやっていられない。そのくらい、まだ博樹のことは忘れていなかった。