すてきな気持ち

秋が深まってきたその11月最後の約束の日は彼の仕事が遅くなるということで、午後九時過ぎにバーで待ち合わせをした。
互いに夕食をとっていなかったのでピザを1枚、サラミとピーマンとマッシュルームと、チーズがたっぷり乗ったシンプルだけどお店で作られたこだわりのあるものを頼んで、グラスでもらったハイネケンで乾杯した。スポーツ観戦でもしそうな雰囲気だが、そこは意外にも音楽が楽しめるバーだった。部屋の奥にあるささやかなステージのグランドピアノを、40代くらいの男性ピアニストが軽やかに奏でる。曲は知らないが少しジャズっぽい。聞くところによると曜日によって違う演奏者が担当しているとのことで、曲のセレクトや雰囲気もがらっと変わるので楽しいと前田くんは言った。
彼は月に一、二度らしいが、たまに訪れるという。誰と来るのだろうとも思ったが、由香は特に聞かなかった。
ただ今はこの貴重な時間を分かち合えればいい。
金色の液体はほとんど同じペースで気持ちよく減っていく。

「生演奏って、いいわね。雰囲気も海外のバーみたいで。驚いたわ。」
「いい場所はどこにでもあるんだよ。ちゃんと探せば、探そうとすれば」

前田くんは少しだけ得意げに笑った。やっぱり彼のほうがこの街の素敵な場所の多くを知っていると思った。それは、彼が探そうとしているから見つけられるのだろう。そして自分がいかに家と職場の往復ばかりだったかに気づかされる。新しい場所や人との出会いなんて自分から探そうとしてこなかった、と。
ちゃんと探せば、探そうとすれば。きっとそういうことなのだ。
二杯目のカクテルをもらって軽やかなメロディに耳を傾けていると、反対側の耳に彼の声が響いた。

「That certain feeling。すてきな気持ち、っていう曲。ガーシュウィンだよ」

アメリカの作曲家、ジョージ・ガーシュウィンといったらラプソディインブルーとアイガットリズムくらいしか知らなかったので、へえ、と驚きと感心とが混ざって、「いい曲ね」と由香は微笑んだ。

もはや欧州のクラシックとは別の、新しい音楽の時代を歩み始めた音楽。そのなかで生まれたロマンティックな響き。喜びにあふれた、爽やかで甘い音色。そう、まさに素敵な気持ち。
ビルの地下一階の暗い室内に、ピアノの音が柔らかく響いていい雰囲気が醸し出されていた。その穏やかで心地よいメロディに、グラス片手に由香はまったりする。

「初めてあなたに会ったとき、私は天井にぶつかった。あなたを忘れられなくなった」

その言葉に反応して由香が顔を向けると、彼は優しい顔つきでいた。

「今の曲の歌詞」

彼につられて由香も笑う。
いい音楽といいお酒。そしていい詩。映画みたいにあらゆるものがそろっている気がした。本当に彼はいろんなことを知っている。

「天井って、すごい。でもきっと、天にも昇るときめきのことを言いたいのよね」

由香の言葉に前田くんはそうだね、と相槌を打って、一口飲んだウイスキーのグラスを置いて、静かに言った。

「彼に会ったときを思い出す?」

その口から出る‘彼’という言葉は、すぐに一人の男の顔を由香に思い描かせる。博樹以外にいない。互いに知らない者同士のはずなのに、目の前の男性に彼と呼ばれる博樹。それはでも決して嫌な感じはなかった。
初めて会ったときの博樹。懐かしい面影。控えめで丁寧な笑顔。胸が高鳴る。自分の人生で彼だけがそうさせてくれた。今でも忘れられない。

「そうね」

ふふふ、と由香は笑った。あのとき、自分は確かに‘最高’を見てしまった。そんな若かった自分がかわいくて、天井にぶつかるほど心を奪われた幼くも本気の恋を思い出して、素直な心で言った。

「素敵で、とっても大事な気持ちだわ」

前田くんもまた同じように微笑んだ。
もはや何を話すのも怖くない気がする。安心して話ができる。居心地のいい場所になっていることに気づいた。
同時に、博樹のことが少しずつ切なくなくなり始めていることも。思い出になりつつあるというのだろうか。上書きされていくことを望むわけではないが、こうやって時間が少しずつ傷を癒していくのだろうか、とも思う。そうやって、昔の恋なんて懐かしい思い出になっていくのだろうか。こんなふうに誰かと過ごす時間が増えて、楽しい時間が増えていくたびに。

またいつか新しい‘最高’を見つけてしまうのだろうか。それは少しだけさみしいことにも思えた。博樹をとても好きだったから。あれほど人を愛せないと思うほどの日々だったから。

それでも、たまたまお見合いで紹介された人と、こんなふうに親しくなれると思わなかった。三城ちゃんの言葉がふとよみがえる。

―運命の出会いって、偶然、突然、運命的に訪れるって思っているんでしょう?そんなことないんですよ。意外と普通なところにあるものですよ。

お見合いや紹介なんて結婚が目的みたいでつまらないと思っていたけど、突然こんなふうに気が合う人とも出会える。親しい人ができる。いつだって意外なことがある。これからもいろんなことがある。自分が探そうとすれば。

そんなことを思っていると手元のミモザのオレンジ色はよりいっそう明るく見えた。
でも彼は、‘友達’と言った。叔父に紹介されたものの、いつだったか話をしてくれたように彼が結婚というものに対して前向きな考えを持っているかもわからない。また何か学びたいことがあったり、行きたい場所があったりして、どこかに行ってしまうのかもしれない。

彼はウイスキーをゆっくりと口に含んで、グラスを静かにテーブルに置くとやさしく笑って言った。

「また、そんな気持ちになれる人が、きっといるよ。昔の恋人の代わりじゃなくて、きちんとした気持ちで」

それはなんだか突き放されたようにも聞こえた。
由香は目を丸くして軽い甘さのミモザで口を湿らす。軽く微笑んで見せる。どういう意味?という言葉の代わりみたいだったであろう。

きっと博樹の話をしたから、心配をしてくれていたのだ、と思った。励ましてくれたのだ。新しい道のために背中を押してくれたのだ。それなのに、一人きりでどこかに放り投げられたような寂しさに襲われた。なんだろう、この感じは。

ちゃんと探せば、探そうとすれば。
それはまるで、星空の下に神は必ずいる、と歌ったベートーベンの名曲のように前向きなことのはず。それなのに、先ほどの彼の言葉が胸によみがえる。なんだろう、この、寂しさは。

午後十一時、名残惜しい気持ちで最後のカクテルの甘さを、舐めるように味わった。