すてきな気持ち

前田くんはいいひとだ。おいしいものをわかっていて、気持ちよく食べて飲んで、話しやすくて、安心して一緒にいられる。でも博樹と出会い、彼を望んだときの気持ちとは違った。もちろん出会った年齢や状況も違うわけだが。

でももし、前田くんと結婚できたら、母は安心するだろう。父も喜ぶだろう。それからすぐに子どもでもできたら最高の展開だろうな。
でも、そんな気持ちで結婚相手にするには、博樹の空いた部分を埋めるように彼を求めるのは失礼すぎる。そんなことでは互いに不幸になってしまう。博樹のいない寂しさを誤魔化すみたいなのは嫌だ。


「その人の何が悪いんですか」

土曜日の診療時間が終わってからのちょっとした事務作業をしているときに三城ちゃんが言った。

一瞬だけ顔を向けて、由香は言った。

「別に、悪いところなんてないわよ。」
「だったら決めちゃっても」
「決めるも何も、彼は友達なの。結婚とかお付き合いしましょうっていう話も別にないし。彼もまだ結婚する気がないんじゃないかしら。またどこかに転勤とか移動する可能性もあるし」
「結婚する気がない人はお見合いしませんよ。しかも上司からの縁談ですよ。いい加減なことできませんって。」

その言葉について考えながら、由香は手元でペンをゆらゆらと上下に動かしながら少しの間、無言でいた。その横でさりげなく会話を聞いていた綿貫さんが言った。

「まだ忘れられないの?」

その言葉に、由香はペンを持つ手を止めた。そのわずかな動作に周囲は気づいたか、気づかなかったかわからないが、そこにいた全員が思い描いたのは一人の男の姿とまだ若い由香の姿だった。懐かしい、決して取り戻すことのできない初恋。遠い景色を眺めるように由香はふと窓の外の遠くを見る。

「由香先生はロマンチストすぎ」
「過去を引きずっている、とも言えなくない、かな」

三城ちゃんが言って、綿貫さんが横から口を出した。

「ロマンチストでも過去を引きずっているつもりもないわよ」

二人が口を揃えて、いやいや、と否定する。

「地元のない人ならいいじゃないですか。もし今後その人がどこかに転勤することになっても、一時的に単身赴任してもらうとかもアリですよ。これから何があるかなんて誰もわからないんですから。一緒にいて楽しいならとりあえず進展してもいいと思いますけどね」
「そうよ。もういいかげん学生時代の恋人なんて思い出にしちゃいなさいって」

綿貫さんの言葉に黙り込む由香に、三城ちゃんがすかさず言った。

「お見合いだっていいじゃないですか。大事な人との出会いは意外と平凡ですよ。その学生時代の彼氏さんだって結局はただの同級生だったわけでしょう」

最初に勤めた病院の同僚と結婚した三城ちゃんが言うと説得力もある。
そして由香の脳裏に浮かぶのはまだ高校を卒業したばかりの、若い博樹だった。同じクラスで、1人だけ違って見えた。控えめな笑顔であったがとても印象深くて、初めて二人で話をしたときは、会話が止まらなかった。もっと話したいと思った。他の人と違う特別な人だとすぐにわかった。

「ただの同級生、ではなかったみたいよ」

由香の胸の内を察したかのように綿貫さんが代弁する。

─あなた以上に好きな人ができない。

あの夜、由香は博樹にそう言った。

博樹、博樹、博樹。
しつこいことはわかっていた。でも彼以上はこの街にはいなかった。たくさん人がいる東京を探しても、博樹を好きになったように好きになれる人がいるかわからない。他の男の人と出会うたびに博樹と比べてしまうなんて、自分でもいい加減にしたい。

「違うのよ、博樹を好きになったときの感じと」

由香の言葉に三城ちゃんが「そりゃあ、別の人ですから」ともっともなことを言うと、綿貫さんが口を開いた。

「かわいそうにね、そんなに忘れられないなんて。いっそ東京なんて行かなければよかったのに。地元にだって医学部はあるんだから」

そう言われて、由香は窓越しのなじみある街並みを眺めた。少し古臭いビルが立ち並ぶ駅前の通りは懐かしさであふれている。よくいえばレトロとも言える穏やかで美しい故郷。
東京にあるものがここにはないが、東京にないものがここにある。
幼いころからずっと歩いた街並み。いつだってここが帰る場所、と思うと、嬉しくなる。便利も不便も全部ひっくるめて結局大好きな場所。
ほかに帰る場所はない。それはもう、ずっとわかっていた。博樹と付き合う前から。自分にはここしかないと。

「それでも、一度くらい出てみたかった。この街を。大学生活の数年間だけでも、東京で暮らしてみたかったの」

その選択は間違いじゃなかったと、何度でも声を大きくして言える。
日本で一番のものをたくさん持っている東京には、地元にはないすべてが、何でもあるのだと信じていた。日本で一番高いタワー、日本で一番賑やかな街。そして、日本で一番好きになれる人も。東京にすべてがあると思っていた。東京で暮らしたその先も輝いた未来が待っていると思っていた。幼かった自分をかわいいなと思う。
きっと博樹以上は東京にもどこにもいないのだ。

「それでも博樹を知らないままの人生よりいいと思ってしまうもの」

視線を窓の外の街並みに向けて力強く言う由香に、周囲はそれ以上何も言えなかった。

大丈夫、過ぎ去った時間がまぶしいだけ。いつかまた博樹に恋をしたみたいに誰かを好きになる。
いつかまた、きっと。