前田くんと食事をするようになって、三か月ちょっと過ぎた秋の始まり。
帰宅すると左手首の腕時計は十一時を指していた。玄関を開けると、すぐに母親がリビングに通じる扉の横から顔を出した。
「おかえりなさい。楽しかった?」
子どもの頃から変わらない。母はいつだってこうして自分や父を待っていた。待つことが人生というように、本当にけなげに。
「さんまが秋らしくてとてもおいしかった。きのこの茶わん蒸しも」
「そう、何よりだわ」
おでかけ用と言えないシンプルな、言ってしまえば地味なパンプスを静かに脱ぐ由香に母は安堵したように言った。声だけでも母親が笑顔であることが伝わってくる。そのこと自体は決して悪いことではない。
「ねえ、こうして食事するようになって、もう何か月もたつでしょう。そろそろ、何か大事な話とか、進展があってもいいんじゃないのかしら。それとも、前田さんじゃなくて総合病院のほうに誰かいい人がいるのかしら。」
キッチンでグラスに水を注ぐ由香に母が背後から言った。言いたいことはもう十分にわかった。結婚の話は進まないのか、ということなのだ。
由香は母親にわからないように面倒くさそうな顔をして、グラスに注いだ水を一口飲んで一つ深呼吸をして、なんてことはない、という平凡な顔で言った。
「何かあったらきちんと言うわ」
「そんな、のんびりしている場合じゃないでしょう。」
「だって」
強い口調で反論しようとしたところで、より強い口調で母が言った。
「だってじゃありません。きちんと進展させましょうよ。結婚がすべてではないけど、大事なことであることは間違いないわ。親が娘の幸せを願うのは当たり前なのよ。安心できる人のところに嫁いで欲しいの。もし前田さんがダメなら、また誰か探してもらいますから」
いつだって母はこうやって由香の生活を干渉したがる。成績や世間体を気にして、医者になって家業を継げるように、大切に大切に見守って育ててきた。おかげでまっとうな人生を歩んでいるとは思う。人の役に立てる仕事。対価はきちんとあって、欲しいものもだいたい買えるし、不自由もない。
それでも、家に縛られて育てられたとも思わなかった。そのくらい家族には信頼と愛情があった。
でも一度だけ、覆りそうになった。たった一人との恋は、それほど強烈だった。
もう一度由香はため息をつく。母に対する想いと自己嫌悪と、むなしさと疲れと、いろいろなものが混ざって。
「ごめんなさい。お母さんの言いたいことはわかるから。自分がいつまでも若くないこともわかる。ただ、焦らせないで欲しいの。お願い。とても大事にしたいことだから。焦らせないで。」
冷静さを取り戻して由香が言うと、母は一つ、ため息にも似た深呼吸を大きくして申し訳なさそうに言った。
「ごめんね。兄弟を作ってあげられなくて」
その顔は泣いているみたいに悲しそうだった。母が三十代後半で自分を産むまでにたくさんの苦労があったことも、自分が待ち焦がれた待望の第一子だったことも、そしてそれが最初で最後のチャンスだったことも、由香は知っていた。
「こんな病院閉めちゃえばいいのにって、正直、思うときもあるわ。でも、この病院があったから助かった人もたくさんいるし、今日までのたくさんのありがたいことがあるのよ。そう思うと、どうしても、簡単に終わらせてしまいたくないの。でも、由香に背負わせるものが多すぎて申し訳ないとは、いつも思っているけど」
やめて、と由香は言った。母にそんなことを言わせたいわけじゃない。父と母に囲まれた日々を大切に思わないわけがないのだから。博樹との恋愛が終わったのは母だけのせいではないのだから。
もしも欲しいものを全部あきらめていたとしても、彼を失わなかったとは限らない。
母は言った。
「ごめんなさいね。ただね、私もお父さんも、もういい年でしょう。いつ何があるかわからないわ。だから自分たちがいなくなっても安心して由香を任せられる人がいて欲しいの。あなたは立派な人で、一人でもきちんと生きていけると思うけど。でもね、やっぱり結婚は、形だけでなくて大事な仕組みだと思うから」
互いに真剣に見つめあう。傷つけあいたいわけじゃない。
「胸に留めておくわ」
冷静を装ってほとんど真顔で由香はそう言って、グラスの水を飲み干してリビングを出た。まるで泣いた後みたいに、水はミネラルの味が強く感じられた。
帰宅すると左手首の腕時計は十一時を指していた。玄関を開けると、すぐに母親がリビングに通じる扉の横から顔を出した。
「おかえりなさい。楽しかった?」
子どもの頃から変わらない。母はいつだってこうして自分や父を待っていた。待つことが人生というように、本当にけなげに。
「さんまが秋らしくてとてもおいしかった。きのこの茶わん蒸しも」
「そう、何よりだわ」
おでかけ用と言えないシンプルな、言ってしまえば地味なパンプスを静かに脱ぐ由香に母は安堵したように言った。声だけでも母親が笑顔であることが伝わってくる。そのこと自体は決して悪いことではない。
「ねえ、こうして食事するようになって、もう何か月もたつでしょう。そろそろ、何か大事な話とか、進展があってもいいんじゃないのかしら。それとも、前田さんじゃなくて総合病院のほうに誰かいい人がいるのかしら。」
キッチンでグラスに水を注ぐ由香に母が背後から言った。言いたいことはもう十分にわかった。結婚の話は進まないのか、ということなのだ。
由香は母親にわからないように面倒くさそうな顔をして、グラスに注いだ水を一口飲んで一つ深呼吸をして、なんてことはない、という平凡な顔で言った。
「何かあったらきちんと言うわ」
「そんな、のんびりしている場合じゃないでしょう。」
「だって」
強い口調で反論しようとしたところで、より強い口調で母が言った。
「だってじゃありません。きちんと進展させましょうよ。結婚がすべてではないけど、大事なことであることは間違いないわ。親が娘の幸せを願うのは当たり前なのよ。安心できる人のところに嫁いで欲しいの。もし前田さんがダメなら、また誰か探してもらいますから」
いつだって母はこうやって由香の生活を干渉したがる。成績や世間体を気にして、医者になって家業を継げるように、大切に大切に見守って育ててきた。おかげでまっとうな人生を歩んでいるとは思う。人の役に立てる仕事。対価はきちんとあって、欲しいものもだいたい買えるし、不自由もない。
それでも、家に縛られて育てられたとも思わなかった。そのくらい家族には信頼と愛情があった。
でも一度だけ、覆りそうになった。たった一人との恋は、それほど強烈だった。
もう一度由香はため息をつく。母に対する想いと自己嫌悪と、むなしさと疲れと、いろいろなものが混ざって。
「ごめんなさい。お母さんの言いたいことはわかるから。自分がいつまでも若くないこともわかる。ただ、焦らせないで欲しいの。お願い。とても大事にしたいことだから。焦らせないで。」
冷静さを取り戻して由香が言うと、母は一つ、ため息にも似た深呼吸を大きくして申し訳なさそうに言った。
「ごめんね。兄弟を作ってあげられなくて」
その顔は泣いているみたいに悲しそうだった。母が三十代後半で自分を産むまでにたくさんの苦労があったことも、自分が待ち焦がれた待望の第一子だったことも、そしてそれが最初で最後のチャンスだったことも、由香は知っていた。
「こんな病院閉めちゃえばいいのにって、正直、思うときもあるわ。でも、この病院があったから助かった人もたくさんいるし、今日までのたくさんのありがたいことがあるのよ。そう思うと、どうしても、簡単に終わらせてしまいたくないの。でも、由香に背負わせるものが多すぎて申し訳ないとは、いつも思っているけど」
やめて、と由香は言った。母にそんなことを言わせたいわけじゃない。父と母に囲まれた日々を大切に思わないわけがないのだから。博樹との恋愛が終わったのは母だけのせいではないのだから。
もしも欲しいものを全部あきらめていたとしても、彼を失わなかったとは限らない。
母は言った。
「ごめんなさいね。ただね、私もお父さんも、もういい年でしょう。いつ何があるかわからないわ。だから自分たちがいなくなっても安心して由香を任せられる人がいて欲しいの。あなたは立派な人で、一人でもきちんと生きていけると思うけど。でもね、やっぱり結婚は、形だけでなくて大事な仕組みだと思うから」
互いに真剣に見つめあう。傷つけあいたいわけじゃない。
「胸に留めておくわ」
冷静を装ってほとんど真顔で由香はそう言って、グラスの水を飲み干してリビングを出た。まるで泣いた後みたいに、水はミネラルの味が強く感じられた。



