博樹の話をなんでしたのだろう。冷静になって考えてみるととてつもなく恥ずかしいことに思えた。
「結婚できないのなら子どもだけでもいい。」
そういう話は、親しい友人にはしたことがあった。でも出会って一か月ちょっとの、しかも叔父さんに紹介された男性にする話ではなかった。
反省、という一言で片づけてはいけないような失態だ。思い出すたびに恥ずかしくなる。
一方の前田くんはというと、変化はなかった。その日の帰りもいつもと同じように「いい時間をありがとう」と「また食事しましょう」とメッセージをくれただけで、それ以上を言わなかった。
それから翌週の水曜日、やはりいつも通りというように週末の予定を聞いてきた彼は、博樹の話など聞いていなかったように変わりなく由香を誘ってくれた。仕事のスケジュールや、何が食べたいかとか、いつも通りに。
待ち合わせの店で二週間ぶりに会う彼は先日会ったときと同じように「お疲れ様」と笑顔を向けてくれた。
串揚げのお店で並んで一杯目のビールを傾けながら、いくつかオーダーをした後、由香は言った。
「先日は、ごめんね。」
恥ずかしいところをみせちゃったわ、と由香が言うと彼は日常の続きのように、ごく普通に言った。
「全然恥ずかしいことじゃないでしょ」
もう一口ビールを喉に通してから、彼は続けて言った。
「むしろ、自分が恥ずかしいような気がしたよ」
「どうして?」
由香が聞き返すと同時にちょうどオーダーした品が出されて会話は一瞬、断ち切られる。
店員が立ち去ると彼のほうから口を開いた。
「由香さんの話を聞いたら、自分は本気で人のことを好きになったことがないのかもしれないって思って」
そんな、と由香が言って、それ以上を言えないでいると彼のほうが淡々と続けた。
「俺もここに来る前までに付き合っていた子はいたんだ。でも結婚によって相手を縛ってしまうのかもしれない、相手のために自分が我慢するようなこともできないかもしれないと思ったら、そのときは結婚できなくて、終わりにしたんだよね。だけど俺は今でも彼女とやり直したいと思うようなことはなくて、ただ自分がいなくても幸せでいて欲しいなと思うくらいのことで、それって結局、俺は由香さんみたいほどの想いはなかったのかなと思うと、なんだかわが身可愛さというか、自分がとてつもなく幼稚に思えてしまって。」
その横顔は申し訳なさそうな顔をしていた。由香はその顔を見ながら、彼の昔の恋人という見ず知らずの女性が、どこかで新しい恋をして幸せにしていたらいいなと思った。
彼はそういう気持ちにさせてくれる人だ。
「私だって自分の進路のために彼と別れているし、相手のために自分の生き方を変えられなかったのは同じだわ。どんなに本気で好きになったつもりでも」
図々しくも自分が前田くんを励ましたようなことを言っていることがおかしくなって、由香は笑った。すると彼はありがとう、と言って優しく笑った。
「同じようにオペをして、同じようにリハビリをしても、思ったより早く回復する人も、少し時間がかかる人もいる。時間がかかってしまう人を、俺は悪いと思わない。それから足を失って義足で歩く人を、変だとも思わない。立派だと思う。失ってもまたきちんと自分の力で歩いていくことを、すばらしいことだと思う」
失ってもまた自分の力で歩いていく。
その言葉は、整形外科医としての彼というよりも、親しい友人として言ってくれた気がして、由香の心に刺さった。
「いろんな人がいる。みんな色々あるよね。これからもあるだろうし。でもきっと何も問題ない。って、自分を幼稚かしれないと言った俺が自分でそう言うのはおかしいな」
彼の言葉に、二人で笑った。
色々ある、これからもある。つらいこともある。うまくいかないこともある。でも素敵なことも、あるかもしれない。こうやって声を出して笑っていると、そんな気持ちになってくる。



