すてきな気持ち

「彼の話を聞かせて」

思いがけない返しに由香は目を丸くした。

「どんなことでもいいよ。聞いてみたいな。由香さんの、大好きだった人がどんな人だったのか。」

由香は申し訳ない顔をして少しだけ笑う。
やさしいひと。貴重な週末の夜、他にもっと楽しいことはあるはずなのに。
たいしたことはできない、でも話を聞くくらいは付き合える、という彼の親切さが嬉しかった。

ありがとう、と言って、由香は赤い液体に口をつけて、それからゆっくりと、まるで大事な宝石箱をそっと開けて見せるように、口を開いた。

「博樹は、大学の同級生だったわ。」

由香は静かに、そっと、丁寧に言った。
すらりと伸びた手足や品のいい仕草、服装。穏やかで控えめな笑顔、それらすべてが自分にとってまぶしかったこと。

「まぶしいと思っていた東京の街以上にね」

キラキラしていたのよ、と、グラスの中の液体をじっと見つめたまま、軽く笑って由香は言った。かすかに甘酸っぱい赤い色のカクテルは、博樹と最後に会ったときも飲んでいた。西新宿のバー。高層階の窓越しに都庁が見えた。あの場所にいるとき、一番東京にいる、と感じた。ほどよい距離と親しみのある会話をしてくれるバーテンダーが作り出す上質な時間。好みに合わせて作ってくれる季節の果物のカクテル。東京の、まばゆく切ないほどのきらめき。掴んでおきたいのにできなくて、泣きたくなる。いつだって、特別な夜はこうやって宝石みたいで、そんな景色を幾度となく二人で眺めた。大きいのから小さいのまで、無数の思い出が蘇る。たくさん、たくさん分かち合った。

「博樹は、いつも記念日を覚えていて素敵なレストランを予約してくれた。」
「うん、それから」
「プレゼントはリクエスト式だったの。ピアスとか、香水とか、だいたいの希望を伝えておいて、あとは彼が私に合いそうなものを探してきてくれて。それがすごく楽しみだった」
「へえ」
「彼は、あまり体によくないと言いながら、お酒が好きだったわ。シャンパンとスコッチを好んでいた。消化器科が専門だから、食べるものは気にしちゃうのよね」

言いながら、今にも泣きそうなのを必死でこらえた。もうすべてが懐かしい思い出になっていた。記憶を手繰り寄せるようにその一つ一つの仕草を呼び戻しても、どうやっても取り戻すことのできない過去の宝物にしか過ぎないことに気づくだけだった。
そして由香は言った。

「そして、博樹はたまに嘘をつく人だった」

嘘、というネガティブな単語に、一瞬だけその空気は張り詰める。

由香はその優しい博樹の笑顔を思い出す。控えめで、品のある、穏やかな微笑み。永遠に私だけのものにしたいと、何度思っただろう。ただ寄り添って眠ってその体温を感じて、いつまでもそうしていられたらといつも思っていた。二人で眠ったいくつもの夜を思い出す。ぴったりとくっついて、これ以上近くに行けないほどそばにいて、それでもどこか遠くに感じた人。手放さなければならない予感のせいだとは思いたくなかった。

「彼はね、疲れているのに疲れていないと言ったり、大変なのに大丈夫と言ったり。そういう人。彼がつく嘘はすべて他人のための嘘だった。私のためにも、何度も嘘をついてくれたわ。私に嫌なことがあったときは、眠りそうになりながら話に付き合ってくれて。眠くないって言うの。私の気が済むまで、半分瞼を閉じながらね」

言いながら懐かしい時間を思い出して由香は笑った。本当に優しい人だった。人生の、限られた時間でも彼の特別な人にしてもらえたことを、ただ感謝するだけでもいいのかもしれないと思うほどに。彼はいいひとだった。

「でも、最後に、どうして私を手放したの、と言いたいのに、言えなかった。仕方ないね、なんて言葉で、自分のいない未来に笑顔で送り出してくれた彼を、少しだけ恨みたくなる。行くなと言って、私を引き留めて、ずっとそばにいてほしいと掴んで離さないでいてくれたらよかったのに。私がいないと少しも平気じゃないと、言って欲しかったのに」

懐かしい面影を求めながら、由香はうつむいた。ほとんど泣きそうだった。求めていたのはこの間会ったばかりの博樹ではなく、自分と付き合っていた頃の博樹だったのだ。もう決して手にすることのできない眩しい日々。

前田くんは何も言わなくて、ただ静かに時間を分け合ってくれて、そのことが今の由香には一番ありがたいことだった。もうずっと昔からこうしていたみたいな心地よさと、どこまでも続いていきそうな感じがして、果てしなくて切なかった。

誰かに話したかったのかもしれない。聞いてほしかったのかもしれない。
本当はずっと泣きたかったのかもしれない、と由香は顔を少し横に向けて、控えめに輝く地元の夜景を眺めた。東京の景色とは違うけれど、大好きな街並み。

目の前の男性は博樹と違う。博樹の代わりじゃない。でも、今日、話に付き合ってくれたのがこの人でよかったと心の底から由香は思った。

帰り道は一人で歩いていける、大丈夫。
そんなふうに、一人でも生きていけるのに誰かといたい。人間って、女って、どうしてこんなに傲慢なのだろう。