すてきな気持ち

豊富なメニューに迷いいながらも由香はキールをもらった。このカクテルは色もきれいだし甘さと酸味がおいしくて好きで、まだお酒を覚えたての若い頃からよく飲んでいた。ついこの間も東京で飲んだばかりなのに、懐かしい味に思えてしまう。

前田くんはジャパニーズウイスキーをロックで飲んでいて、その様子を見ながら、ウイスキーを水割りで飲む博樹との違いに当たり前ながらも、ああ、違うと思う。度数の強いアルコールは薄めて飲んだほうがいいよ、博樹はよくそう言った。

男性と二人で会っていて、その未来を思い描こうとするとき、浮かび上がるのはいつだって博樹の顔だ。
ついこの間会ったばかりの博樹の顔は懐かしい面影と重なるのに、五年前に会ったときよりも、自分と恋愛をしていた頃よりも、ずっと落ち着いていて満たされていたように見えた。安らげる場所を手に入れたのだと思った。そのことが、悲しくないはずがなかった。一生かけて自分がそうしてあげられなかったことが、悔しくもあり、泣きたくもなった。

博樹が飲んでいたよりもずっと濃い琥珀色の液体は、目の前で静かに溶けていく氷でゆっくりと薄まっていく。その濃度が薄まっていくみたいに、残酷に流れていく時間は、いつかこの想いも薄めてくれるだろうか。

「子どもだけ欲しい、と言ったことがあるの」

突然の由香の発言に前田くんは顔を向けた。数秒間の沈黙の後、表情を変えないまま「誰に?前に付き合っていた人?」と聞いた。もしかしたら内心驚いていたかもしれないが、そんな様子は少しも感じられなかった。

由香は自分の言葉に、ああ、言ってしまったと思った。お酒の勢いと、この場の雰囲気はあったかもしれない。なんとなく、話したい、誰かに聞いて欲しい、と思ったのかもしれない。
由香は頷いて「学生時代から七年間、私の初恋であり青春よ」と言って軽く笑った。

「断られるのはわかっていた。彼は結婚したばかりで、かわいい奥さんに以外に欲しいものはないことは、確かだったのに」

真面目で誠実な彼が、妻がいるのに、他の女……それがたとえかつて愛し合った恋人であったとしても、子供を他所で作るなんてこと、するはずがないことはわかっていた。だから断られたとき、それほどショックでもなかった。単に自分の気持ちを知っておいてほしかっただけなのだろうなと今は思う。傲慢だと思いながらも、言葉にしてしまった。

あの夜、同窓会の後で二人きりになった博樹は自分と真剣に向き合って、返す言葉を必死に選んで、やさしく一人の私を見送って、彼は大事な人の待つ家に帰って行った。
それ以来、博樹とは連絡を取っていない。同級生だし、またいつか会えるとは思うけど。

「ごめんなさいね。こんな話。親しくなったばかりの友人にする話じゃないわね。ひいちゃうわよね」

自嘲気味に笑った由香に対して前田くんは穏やかに、あたたかい笑顔を向けた。こんなふうにいつも同僚や患者さんに微笑むのだろうと思うと、彼の周囲の人がうらやましく思えた。不安も恐怖も悲しみも、少し和らげるような笑顔。まるで大丈夫だよ、と言うみたいに。