すてきな気持ち

父の病気がわかったとき、まあ、年齢的にも色々出てくるよね、母と話した。
医者だって人間なので病気にもなる。でも幸か不幸か、私たちは自分たちの状態がどういうものなのかがそれなりにわかる。なので今すぐ父がいなくなってしまうわけではないことは安心したが、永遠が存在しないことも改めて気づかされた。このままでいられないのは、父も母も、由香もみんな同じだった。

博樹が結婚したと人づてに聞いて一か月くらいたった頃、思い切って電話をした。

「子どもだけ欲しいの。認知してほしいなんて言わないし、経済的な支援は一切不要。1人で育てていける。あなたが父親だってことを誰にも言わないわ。昔みたいに抱いてくれなくてもいい。人工授精だってこっちは専門だしね」

博樹と別れてから五年間、お見合いや紹介で男の人と知り合う機会もあったし、デートを重ねた人もいた。でも結婚につながることはもちろん、好きな人もできなかった。

「子どもだけなんて、簡単に言うことじゃないよ」

博樹は動揺していたようだったけど、ゆっくりと言葉を選んで、昔から知っている穏やかな口調で丁寧に言った。

確かに、一人で産んで育てるということは、簡単に言うことじゃないかもしれない。しかしながら自分が専門職として年齢が妊娠や出産のリスクになることも十分にわかっていた。もちろん子どものいない生き方だってある。

でも、いつかは自分も母になるのだと思ってきたし、その喜びを幾度となく見るたびに、やっぱり好きな人の子どもが欲しい、というありふれたことを思う気持ちが強くなる。
そうしていくなかで博樹が自分のいない人生を確実に歩んでいっていることを知った。
博樹以上に好きな人ができないのなら、いっそ彼の子どもを授かることができたら、それだけでも幸せかもしれないとすら思い始めていた。

どんなに必死で掴んで離さないようにしたくても、時間はすべてに平等に、人間の意思なんて無関係に、残酷に流れていく。

「私には色々なリミットがあるのよ」

電話越しでどのくらいこの真剣な気持ちが伝わっただろう。


東京への出張、仕事のスケジュールは予定通りに終わった。
学生時代の友人たちと西新宿で待ち合わせをして軽くお茶を飲む。彼女たちの左手の薬指には指輪が光っている。学生時代の同級生や職場の同僚と結婚した子もいるし、結婚相談所でうまくいった子もいる。仕事もそれぞれ専門医を取得して、公私ともに充実していた。

そして彼女たちは由香と博樹が長く付き合っていたことも、五年前にそれぞれの未来のために別れたことも知っていた。そして博樹が結婚した話を教えてくれたのも、このなかの一人の子だ。

「由香は、最近は?」

温かく、満たされた笑顔。愛されている女性というのはどうしてこう雰囲気が柔らかいのだろう。
由香は首をかしげて困ったように笑う。

「仕事が忙しくてね」
「でも由香なら結婚しようと思えばすぐできるから」

一人が言うと、他の女の子たちも、同じような声を上げた。
たまにしか会えない女友達の励ましは責任がなくて軽い。そういうやさしさも必要なことなのだと思っているから、ありがとう、と由香は微笑んでみせた。

紅茶を飲み終えて腕時計を見る。博樹に会えるまであと一時間。昨日、彼は参加の可否について連絡をしてくれて、じゃあまた明日とメールを終えた。時計の針が動くたびにこの胸は少しずつ騒がしくなる。どうせ飲み始めたら落ちてしまうとわかっていても、化粧室で由香はもう一度口紅を丁寧に塗りなおした。

指定されたお店は和風の中庭の見えるお店で、料亭ほど堅苦しくなくて、いい雰囲気だった。幹事はきちんと個室を予約してくれたらしい。懐かしい同級生たちが二十人程度集まっていて、みんな元気そうだった。

博樹はまだそこにいなくて、本当に今日、彼がここに来るのだろうかと心配する心は乙女そのものだ。ばかばかしい。博樹には自分以外にもたくさん大切な仲間がいて、懐かしい友人に会いたいのは彼だって同じなのだから。たとえ自分がいてもいなくても、彼は自分の意志でここに来ることも来ないことも決める。

まだ来ない者もいたが時間になったので乾杯をした。卒業以来に会えた人もいて心は学生時代に戻る。
一杯目のビールを飲み終えた由香は、メニュー片手に周囲に声をかける。

「次、飲む人は?オーダーするから教えてー!」

ボトルで頼んじゃえばとか、この料理は日本酒欲しいねとか、みんな好きなことを色々言って、室内は騒がしい。
博樹がいてもまともに話はできないかもしれないな。でも、いっそもうその顔を見れるだけでもいいと思いながら個室のドアを開けてスタッフに声をかけようかと思ったときだった。

「遅れてごめん」

懐かしい声と同時にドアが開く。夕方からの雨の湿気を含んだ空気と一緒に博樹がそこにいた。
由香に向けられた控えめな、品のいい笑顔。ああ、元気そうでよかったというような温かい眼差し。
同じように微笑みたくなる。何度も思い描いたその輪郭。自分の都合で別れてからの五年間、会いたいとどれほど思っても決して口にすることはなかった。
何かしらの形で未来に博樹がいてくれたらと、どれほど思っただろう。

優しい博樹。真面目で、誠実で、丁寧で、親切な博樹。今、その優しさに甘えている自分のずるさはわかっていた。

「由香」

博樹に名前を呼ばれると、騒がしい室内の音はもう何も聞こえなかった。
次は何と言ってくれるだろうと耳を澄ませて、どんな顔を見せてくれるだろうと目を見開いていた。初めて会ったときみたいに、その心は喜びで震えていた。

そのドアにかけられた彼の左手の薬指には、銀色のシンプルな指輪が光っていたけれど。