道中ちょっとしたハプニングがありつつも、何とか皇族が住まう宮殿に辿り着く。

「何故お迎えに上がるだけなのに、こんなにも疲れるのでしょうか……」

 疲れた様子の役人に申し訳なく思いつつも、これからハイネに謁見する事への不安で、気遣う余裕がない。
 華やかだったハーターシュタイン公国の宮殿に比べ、ブラウベルク帝国の宮殿は堅牢であり、暗く閉鎖的な印象を受ける。広く、滑らかに磨かれた回廊の床には青い絨毯が敷かれていて、奥に進むごとに衛兵の数が増えていく。これから向かう先が貴人の元だという事を嫌でも感じ、緊張感がいや増す。
 だが、この中をジルはハーターシュタイン大公の正妃として、堂々と歩まねばならないのだ。

(妻という実感はないけれど、公国の人間として恥ずべき振る舞いはしたくないわ)

「こちらが殿下の執務室になります」

 役人はそう言うと、扉の前の衛兵に何事かを伝え、扉をノックした。

「ジル様をお連れしました。中へご案内しても?」

「入れ」

 ダルそうな声が中から聞こえる。前にも聞いたハイネの声だ。

「失礼します」

 扉が開けられ、ジルは中に踏み入れた。

「ハイネ様、お久しぶりですわ」

「ああ、面倒な挨拶はいいから、そこのソファにでもかけろ」

 スカートの裾を摘まんで正式な挨拶の姿勢をとろうとしたジルを制し、ハイネはソファを指さす。
 マルゴットは外での待機となるため、ハイネとは1人で話さなければならない。強い不安感と孤独感に胸が締め付けられる。

「失礼します」

 いつでも逃げ出せるように、ジルはソファに浅く腰掛けた。

「相変わらずだな」

 ジルの目の前にドカッと腰かけたハイネは整った顔立ちを嫌味っぽく歪めている。

「相変わらずというと?」

「この国に来て、多少変化するかと思ったが、何も変わってないな。体形もボケ加減も最高に緩みきってる」

 ハイネのあまりの物言いに、ジルは唖然とした。
 いくら高貴な身分とは言え、こんな言い方はないのではないだろうか?

「何か私に御用ですか?」

 憮然とした表情のジルに、ハイネは妙に爽やかな笑顔を浮かべた。

「あるから呼んだに決まってるだろ? おい、用意させてたやつをさっさと持って来い」

 ハイネは、背後に控えた役人に指示する。
 ジル達を迎えに来た男は、ハイネの側近らしかった。

「既に用意しておりますっ」

 役人は紙が乗った金のトレーを恭しくハイネに差し出す。

「言われる前に出せよ。のろま」

「申し訳ございませんんん!」

(何て言い方なの……、高貴な方って性格が残念な人しかいないのかしら?)

 目の前のハイネといい、夫であるテオドールといい、性格が地雷な男ばかりではないか。

 バンッと目の前のテーブルに紙を叩きつけられる。

「ヒッ!」

「ジル・フォン・シュタインベルク。今すぐにハーターシュタイン大公との離縁状を書け」

「え!? どういう事ですの?」

 事情が飲み込めず、頭が真っ白になる。
 ジルは大公の妻としての価値があるからこの国に人質として来ているのだ。
 それなのに、離縁しろというハイネの意図が分からない。

「俺の嫁にしてやる」

 衝撃的な言葉に、ジルはハイネの灰色の瞳を茫然と見つめる。言葉が出て来ない。

「アンタにしたら相手の男が変わるだけなんだから、大した問題じゃないだろ?」

「そんな……急に嫁になれと言われても困りますわ。だって私神前で、誓いを立てましたのに」

「神ね……。神を信じてるアンタは、一度でも助けられた事有った? その他力本願なとこ、自分でどう思ってるわけ? アンタが普段から努力して社交界なりで自分の地位を固めておいてたら、実の父にも、夫にも利用されなかったんだよ。ていうかさ、もう大公には愛人がいるらしいじゃん? どーせ帰ってもアンタに居場所なんてないよ」