疑問に思い、目を開くと、大公の冷めた顔が離れていくところだった。

(え……? 今キスしたフリをしたの?)

 茫然と彼の顔を眺めるが、困ったように笑われただけだった。

 確かにジルは大公との誓いのキスに抵抗を感じていた。
 しかし、式でされないでしまうと、不安になってしまう。

(どんな夫婦生活をおくる事になるのかしら……)



 ジルの不安は、式が終わった後に的中する事になった。

「え!? もう一度おっしゃっていただけませんか!?」

「だから、明日君にはブラウベルク帝国に向かってもらう。あの強国と同盟を結ぶことになったから、我が国の人質を用意しなければならないんだ」

 大聖堂から戻って来た後やや暇な時間を過ごしていたジルの元を訪れた大公は、思いもよらない事を言い出した。 

「そんな!」

「既に向うでの生活に必要な物は、用意させてある。心配はいらない」

「も、もしかしなくても、私との結婚って、帝国に人質として差し出す為なのでは!?」

「察しのいい子は嫌いだよ」

 麗しの大公はもうジルに笑顔一つ向けてくれない。

「君みたいなのでも、利用される価値がある事に感謝する事だね」

「お父様はこの事を知っているのですか!?」

「勿論さ。数年でこの国に戻って来させるという条件で快諾してくれたよ」

「酷いわ……」

「まぁ、そういう事だから宜しく頼む。我が国が戦争に勝利した暁には君を一回くらいは抱いてもいい。たまに珍獣を相手にすると、美女との相手がより楽しめるかもしれないからな」

「ヒッ! 気持ち悪い!」

「つくづく可愛げのない女だ」

 大公は冷たく吐き捨て、ジルの部屋を去って行った。

 一人取り残された部屋で、ジルは涙を流した。

(こんな不幸ってある? 裏があるとは思っていたけど、まさかこの国を去って、いつ首を落とされるかも分からない生活をおくらなきゃならなくなるなんて……)

 ひとしきり泣いて、室内が暗くなってきた頃には、ジルは少し前向きに考えられるようになっていた。

「考えてみると、悪くないかもしれないわ」

 正直なところ、この城で正妃として暮らす事をイメージ出来ないでいた。
 夫である大公や、その両親、そして使用人達の冷めた目に怯えながら過ごさなくてもいいのだ。
 王妃に求められる資質の一つとして外見の美しさが不可欠らしいのに、ジルはデブなので幻滅され、扱いがあまり良くない。

「これを機に隣国の見聞を広めるのよ!」

 暗くなっているばかりでは前に進めない。自分の価値を高め、またこの国に戻ってきたらそれでいいだろう。

 その夜、当然のごとく大公が訪れる事はなく、ジルは明日の為に実家から持って来た書籍等をせっせとトランクに詰め込んだ。



 翌朝、ワザとらしく悲しそうな表情を作る大公と父にジルは別れの挨拶をする。

「勤めを果たしに参ります」

「僕は素晴らしい女性を選べて幸せだ……、君は僕の誇りだよ」

「ジルよ……、そなたを娘に持った事、儂は忘れんからな」

「お父様、覚えてらっしゃい……」

 にこやかに別れを告げるジルの毅然とした姿に、見送りに来た使用人達は悲しみに包まれた。

 騎士団に先導され、ジルが乗る馬車は宮殿を出発する。

「ジル様、悲しくはないのですか?」

 実家から着いて来てくれた侍女のマルゴットが、悲しげな顔でジルを見つめる。

「マルゴット、アナタがいるから寂しくはないわ。でも最後にお母様には会いたかったわね」

 ジルと対照的に、針金の様に痩せこけたマルゴットは、下を向き、身を震わせる。

 薄茶色のおさげ姿の彼女は、黙っていれば痩せすぎた美少女。少々変わった趣味はあるものの、公国で暮らしていれば、結婚して安定した生活が出来ただろう。

「私の侍女になって、アナタには苦労させてばかりね。帝国での暮らしは不安でしょうけど、力を合わせて乗り切りましょう」

「ジル様、むしろ逆です。喜んでいるのです。ブラウベルク帝国は陽の光があまり差さない土地柄……。私のような者にとっては暮らし良い国でしょう……ククク」

「マルゴット……底知れない子……」

 邪悪な表情を浮かべ、笑う彼女にジルは慌てた。

 ジルは国境に立つ砦までハーターシュタイン公国の騎士団に送られ、そこでブラウベルク帝国側の人質と交換されるらしい。
 ジル達が乗る馬車の前を走るのは、この交換に立ち会う外交官達が乗っている馬車だ。

 ブラウベルク帝国に近付くにつれ、陽の光が陰る。
 ハーターシュタイン公国の北に位置するこの国は、気温が低く、日照時間が短く、降水量も少ない。つまりは人が生きるうえでは少しばかり過酷な環境なのだ。
 そのため、南へ領土を拡大しようとする動きが活発で、ハーターシュタイン公国に対し、歴史上何度も戦争を仕掛けてきていた。

 だからジルは、この同盟に違和感しか感じられない。
 こうした南下に対しての強い意向は、帝国に住む人々の意識に悲願として根付くもののようであり、人質を1人や2人交換したからといって、途絶えるものなのだろうか?

(私、いつまで生きれるのかしら……)

 ジルは再び憂鬱な気分になった。

 旅程は順調で、砦に着いたのはまだ太陽が高い時間だった。

 ジルや公国側の外交官達は砦の中の会議室に通される。

 既に到着していたブラウベルク帝国側の使者や護衛達は、会議室の奥側を陣取る。その中にはこの場では場違いな10歳程度にしか見えない少年の姿もある。

(あの方が帝国側の人質?)

「帝国からは第3皇子コルト様が人質として我が国にお越しになられます」

 ジルの考えを読んだかの様なタイミングで、公国の外交官が教えてくれる。

「あの様に若い方が……気の毒ね」

「皇族に生まれた者の定めでしょうかね。私からしてみたら貴女の方が気の毒ですがね」

「事情をご存知なのね。貴方の様な優しい方に見送られるなんて、私は幸せ者だわ」

 思いもかけず、温かい言葉を貰い、ジルは微笑んだ。

「へぇ……、これから人質になるっていうのに、他人を気に掛ける余裕があるとはなぁ」

 若い男がツカツカとジル達の元へ歩み寄って来る。

「ハイネ様! この様な場ではお控えくださいませ!」「公国側に挑発する気ですか!?」

 ジルと同じくらいの年齢だろうか?

 少年らしい爽やかさと、どこか皮肉気な雰囲気が混ざり合った様な整った顔立ちだ。
 太陽の光の様な濃い金髪に、灰色の瞳を持ち、帝国側の騎士の鎧を身にまとう。近寄られると、ジルより頭一つ分程も身長が高い。