ピアニストとしての仕事を辞めると決意したとき、契約していたプロダクションには、契約解除の手続きをしに行った。


四年前の花岡と会えたのは、それが最後の日だ。

サインを済ませて部屋を出たところで、立ち尽くしている花岡と目が合った。最後の最後まで、ピアニストとしての私を諦めないでいてくれていた。

『一緒に行きますよ』と言った彼を拒むように首を振ったら、まっすぐに私を見つめてくれていた瞳が、静かに揺れた気がした。

『それで、後悔しないですか』


静かに囁いた。あの日の声に私は何と言っただろう。しないように全力で頑張るとでも言ったかもしれない。後悔しないで、走り続けられているだろうか。

すべてがあいまいだ。


「藤堂」


あの瞬間に縁が途切れてしまったはずの花岡が、私の耳に囁きかける。立ち上がれなくなった私の手を取って、すべてから守るように、前を歩き続けてくれている。


「飯食うか」


まぶしいほどのつよさに、何度胸を打たれていることだろう。


平気な顔をして頷いた。

荷物を持っているのに、もう片方の手で私の指先をせがんでくる。心配性なのだろうか。わからないけれど、もう逃げたりしない。私が逃げ込める場所なんて、この世には一つもなかった。今はただあなただけ。