ここがどこなのか、ほとんど忘れかけていただろう。どうしてこの人が私のそばで囁いてくれているのか、なぜ私の耳が聞こえなくなってしまったのか。すべての事情を忘れて、現実から逃げ続けていた。
こめかみから耳の裏を花岡の指先がなぞる。その手つきで、今もなお、自分がぐっしょりと汗をかいていることに気づく。
「あ、ごめなさ……、わたし、汚いです」
「藤堂、答えてくれ」
問いかけたまま、逸らすことをしない。花岡はあくまでも事実を確認している。睡眠障害は、花岡から離れる前にも少し発症していた。今では常連のような付き合いだ。言えば、どうしようもなく不安にさせる。
「……ずっと書いてたのか?」
少し前まで書き続けていた紙を、慈しむように撫でた。擦り切れた感情が爆発して、泣き出してしまいそうだ。どうして、こんながらくたを大切にしようとしてくれているのだろう。苦しくてたまらなくなる。
逃げ出したいがための音に、誰が賛同するだろう。誰の何を救うだろう。自分が信じてきた音楽の何になれているのかもわからなくて、ただ苦しい。
「はい」
否定することもできずに囁いたら、やさしい熱に抱擁される。まるで昨日の再会の時のように。


