空がすっかり暗くなり、家々からオレンジの明かりが漏れ出す頃。

 ふたりの町娘が、紙きれを手にきょろきょろと何かを探すように通りを曲がった。

「ここで合っているのかしら?」

「あ、お店の名前。『グレダの酒場』、ほら、間違ってないわ」

 口々にそんなことを言いながら、ひとりの娘が恐る恐る扉を押し開ける。カランっと小気味よい音が響いた途端、ちょうど客から注文を取り終えたらしい長身の男がさらりと振り返った。

「いらっしゃいませ、お嬢様方。グレダの酒場にようこそ」

 深い色のシャツにエプロンを合わせ、美しい極上の微笑みを湛えたエリアスに、町娘ふたりはきゃあと歓声を上げた。頬を紅潮させた娘たちが互いの肩を意味もなくたたき合う中、エリアスはそのうちのひとりが持つ紙きれに目をやった。

「おや、そちらの紙は……。そうでしたか。先ほど、噴水広場でチラシを受け取ってくださったお嬢様ですね。来てくださり嬉しいです」

 ささ、どうぞこちらへ。さりげなく肩に手を置いて、目にハートを浮かべる娘ふたりをテーブル席へと促す。その仕草は、たとえ素顔が「愛情表現が若干気持ち悪い残念イケメン」ということを知っていても、うっかりトキめいてしまいそうなぐらい様になっている。

だからだろう。彼がエスコートする道中には、同じようにうっとりと彼を見上げる女たちの視線が、いくつも飛び交っていた。

 フィアナ、キュリオ、ニースはそれを、カウンターから真顔で眺めた。

「え……。待って、ここ何のお店になったの……?」

「いいなあ。若い女がいっぱい……。この街、こんなに女がいたんだなあ」

「いるわよ! 当たり前でしょ!? そうじゃなくて、こんなの、今まで来ていたお客さんたちとあまりに違いすぎて……」

「はいっ、おまち」

 ドンと音がして、キュリオとニースの前にエールが並々と入った木のグラスが置かれた。つられて一同がそちらを見ると、エリアスと同じく即席・店員スタイルに身を包んだマルスが憮然とした顔でふたりを見下ろしていた。

「いや~ん! マルスちゃん、かわいい!!」

「おお! 馬子にも衣装じゃねえか」

「当然でしょ? この私が見立てたんだもの。でも想像以上だわぁ! こんな近くに、こんな逸材がいたなんて!」

「だあー、ひっつくな! ただでさえ窮屈なんだよ、この服!」

 しがみついて頬ずりをするキュリオを、マルスが嫌そうに押しやる。ぐいぐいとキュリオを遠ざけながら、彼はふと、女性客に囲まれて笑顔で受け答えをするエリアスを悔しそうに横目でみた。

「キュリオはずっとこの店に通ってきたから、思うことは色々あるかもしれないけど……。実際、あいつは大したもんだよ。俺とフィアナがあれだけビラ配りをしてもほとんど呼び込めなかった客を、ちょっと通りに立っただけでこんなに連れてきたんだからさ」

 さて、エリアスとマルスがなぜ、見慣れない服装でグレダの酒場のホールに立っているのかと言えば、答えは簡単。彼らはいま、この店の飛び込み店員なのである!

 宰相を10日間お休みします。噴水広場に飛び込んできたエリアスがそう宣言したあと。

 エリアスは無理やりマルスを引きずって、キュリオの店に赴いた。しばらくして今の装いに身を包んで帰ってくると、彼は完璧な接客スマイルで道行くマダムや乙女たちに声を掛け、その心を鷲掴みにした。

〝来てくださるんですね、ありがとうございます。きっと、すごく素敵な夜になりますよ〟

〝私ですか? ふふふ、ちゃんと後から行きます。約束です。先に行って、待っていてくださいね?〟

〝ええ、その時間はまだ営業をしております。ご友人と一緒に? 嬉しいです。後でお会いできるのを、楽しみにお待ちしていますね〟

(なんか思っていたのと違う)

 宰相様の素晴らしき叡智をもってしてというより、圧倒的人たらし術――いうならば、口説き落としによって客を集めていくエリアスに、フィアナもマルスもそんなことを思ったとか、思わなかったとか。

 とにかく、そんなこんなで久しぶりにグレダの酒場は大繁盛。フィアナの父ベクターも、さっきから忙しくも嬉しそうに料理を作りまくっている。

 とはいえ、女たちの夜は早い。客が捌け、ある程度店が落ち着いてきたころ、休憩をはさむためにエリアスは奥へと引っ込んだ。

 さすがに疲れた様子で椅子に座る彼の前に、フィアナはことりと皿を置いてやる。

「どうぞ。賄いです」

「わあ! トマトパスタ! これ、食べちゃっていいんですか?」

「もちろんです。賄いって、そういうものですし」

 いただきまーすと。途端に元気になったエリアスは、両手をきちんと合わせてから、さっそくパスタに舌鼓を打つ。フィアナは何と言ったらいいかわからなくて、とりあえず嬉しそうに食事をするエリアスの向かいに、ちょこんと座ってみた。

 そわそわと、エリアスの様子を窺うフィアナ。そんな彼女に、くるくるとフォークにパスタを巻きつけながら、エリアスが問いかけた。

「不安ですか? 今までのお客さんと、あまりに層が違いすぎて」

「え? あ、あの……」

「大丈夫ですよ。フィアナさんのことは、なんでもお見通しです」

 にこっとほほ笑みかけられ、フィアナは申し訳なさで小さく身を縮める。視線を泳がせ、フィアナはおずおずと切り出した。

「こんなにお客さんが来てくれて、すごく嬉しいんです。お父さんもお母さんも、こんなに席が埋まるのはひさしぶりだって、とても喜んでいるし。……けど、今いるお客さんが来てくれたのは、エリアスさんがお店にいてくれるからで」

「はい。私が働くのをやめたら、お客さんは離れてしまいます」

 よく出来ましたと言わんばかりに、エリアスが頷く。その明るい調子に、フィアナは思わず顔を上げる。すると彼は、ぱくりとパスタを食べてからひらひらとフォークを振った。

「今夜のこれは、急場しのぎですよ。まやかしのような手ではありますが、懐を潤すことはできます。何か手を打つにしても、まずは元手を固めておきたいですから」

「じゃあ、エリアスさんは」

「ええ。勝負を打つのは、ここからです」

 きっぱりと断言をしたエリアスに、フィアナはほっと息を漏らした。当然、それをエリアスが見逃すはずがない。彼は長い腕を伸ばすと、くしゃりとフィアナの頭を撫でて「大丈夫ですよ」とほほ笑んだ。

「こう見えて、あれこれと手を打つのは慣れているんです。すぐに効果は出ないかもしれませんが、色々と試していくつもりです。大船に乗ったつもりで、待っていてください」

 とはいえ、策はこれから考えなくてはなんですけどねえ、と。気張るでもなく、彼はのんびりとそう言った。




 その夜、エリアスはグレダの酒場に泊まった。彼のほうから、集中して策を練りたいので部屋を借りられないかと申し出があり、両親が一も二もなく了承したのだ。

「私は決してそのような不埒なことは行いません。行いませんが……フィアナさんから夜這いをかけてくださるなら、いつでもウェルカムです。鍵は開けておきますからね」

「いらない気遣いですし、なんなら外から閉じ込めて差し上げましょうか」

「私を監禁するフィアナさん、ですか。それはそれで、そそるものがありますね」

 口ではそんな冗談を言うくせに、なぜか店のメニューを片手に、エリアスは早々に部屋に引きこもってしまう。

 あれこれと考えを巡らせているのだろう。何やらぶつぶつ呟きながら部屋に入っていく横顔は真剣で、どうしようもなくフィアナを安心させてしまう。

 だからだろうか。

(私も……私も、考えるんだ。お客さんを呼ぶ方法、戻ってきてもらう方法を)

 エリアスさんも一緒に、頑張ってくれているのだから。

 そうベッドの中で悶々と考えていたのに――。フィアナはいつの間にか、ひさしぶりの深い眠りの中へと気持よく誘われてしまったのだった。