――それは、唐突に訪れた。

「フィーアナさんっ。夜分遅くにすみません」

 とある日の暮れ、店じまいをしようとフィアナが外に出て看板に手を掛けた、そのとき。目の前に馬車が止まり、エリアスがひょこりと顔をのぞかせた。

 珍しく今夜は、いつものカウンター席に彼はいなかった。また仕事で遅くなったのだろうか。そう思って顔を上げたフィアナは、あれと首を傾げた。

 エリアスの両手には大きなバックが二つ。ぱんぱんに膨れたそれは、まるでこれから旅行にでも出かけるようだ。しげしげと眺めながら、フィアナは尋ねる。

「どうしたんですか、それ」

「ああ、これ。もしものときの出張セットです」

「出張? どっかにいくんですか」

「そうではないんです。ただ、急遽これが必要になりまして」

「はあ」

 いまいち要領を得ない答えに、フィアナはわずかに眉根を寄せる。そんな彼女に、エリアスはあっけらかんと告げた。

「実は、父に家を追い出されまして。申し訳ありませんが、今晩泊めていただけないでしょうか」

「はい?」

 冗談、もしくは聞き間違えたかと、フィアナは思う。だが、どれほどフィアナが続きを待とうと、エリアスに発言を覆す気配はない。

 だとすると、さっきのアレは聞き間違えでもなんでもなく、真実なわけで。

「はいぃぃぃぃいい!?」

 夜の空にフィアナの声が響くなか、エリアスは変わらず、にこにことほほ笑むだけだった。





 時はさかのぼる。

 エリアスの父アレックス・ルーヴェルトと、母のメリル・ルーヴェルト。その両名が王都の屋敷に来ている。その報せをエリアスが受けたのは、王城への勤めを終えて家路につこうとしたときだった。

「父上、母上!」

 まっすぐに屋敷に戻ったエリアスは、出迎えた両親に朗らかに呼びかける。彼らもまた、嬉しそうにエリアスにハグをした。

「ひさしぶりだな、エリアス」

「会いたかったわ、私の可愛い子」

「可愛い子、だなんて。私はもう、いい大人ですよ」

「いくつになっても、我が子は可愛いものよ。ね、顔をよく見せて?」

 苦笑をしつつ、エリアスは母の好きに顔を覗きこませた。母は、記憶にあるよりも少しだけふくよかになった。父は相変わらず細く鋭い印象だが、宰相の現役時代よりかは幾分か雰囲気が柔らかくなった気がする。ふたりとも元気そうだ。

 そのことに安心をしつつ、エリアスは笑顔で屋敷を指し示した。

「立ち話もなんです。さ、家に入りましょう。色々と話を聞かせてください」

 着替えてすぐにグレダの酒場に発つ。そんないつものルーティーンを今日は撤回し、エリアスは両親と共に食卓に着いた。両親が到着した時点で、この展開を予想していたのだろう。彼らの前には、使用人たちが腕を振るった料理たちが並んでいる。

 美味しい料理に舌鼓を打ちつつ、会話も大層弾んだ。話し役はほとんど母親だった。

 本家の屋敷での出来事や、親戚たちの近況。つい最近ふたりで出かけた、風光明媚な観光地の数々。第二の人生を満喫している両親らしく、母の話には明るいネタが尽きない。驚いたり感心したりしながら、エリアスはそれらに耳を傾け、笑顔で頷いた。

 食事も終わって、紅茶が運ばれてきた頃。それまで、エリアスと同様に聞き役に回っていた父が、ナプキンで口を拭ってから口を開いた。

「ところで、エリアス。私たちがこっちに来たのは、他でもない。先日もらったお前からの手紙に、こう書いてあったからだ。つまり」

「〝紹介したい女性がいる〟」

 ついに来たか。そう思いながら、エリアスは頷いた。

「ええ、書きました。まさか来ていただけるとは思わず。申し訳ありません。本来であれば、私が彼女を伴って本家に赴くべきでしたが」

「いや。それはいいんだ。私たちとお前では、お前の方がはるかに忙しい。余裕のある者が無い者に合わせるのが当然だ」

 軽く肩を竦め、父は言う。軽い仕草とは裏腹に、どう先を続けるべきか悩んでいるかのようだ。その隙に、横から母が身を乗り出した。

「嬉しかったわ。あなたから、そんな連絡をもらえるなんて」

「ああ、そうだ。喜ばしくないわけがない。だが、同時に奇妙にも感じた。手紙には、相手の女性のことが書かれていなかった。普通であれば、どこの家の娘かぐらいは明らかにするはずだ」

 だから、調べさせてもらったのだと。そう言いながら、父は一冊の本――『氷の宰相と春のエンジェル』をテーブルの下から取り出す。表紙をチラリと眺めて、エリアスは軽く肩を竦めた。これだけ王都で売れてるのだ。隠すつもりなど初めからない。

 表情筋ひとつ動かさないエリアスを、父は覗き込んだ。

「この本だけじゃない。王都では、お前と相手の娘の話で持ちきりだそうだな。……正気なのか? 街の酒場の娘を、妻に迎えようなど」

「当然です。正気でなければ、あんな手紙は送りません」

「宰相の妻だぞ? 一介の文官が嫁を貰うのとはわけが違うんだ」

「待って、アレックス」

 強く首を振る夫を宥めつつ、母がエリアスをチラリと見る。その表情で、エリアスは母が味方であることを悟った。

「まずはどんな子か、会ってみましょうよ。そのために王都まで来たんだもの。――ねえ、エリアス。ダウスに聞いたわ。優しくてしっかりした、いいお嬢さんなんですってね。陛下ともご面識があるんでしょう?」

「はい。私にはもったいないくらいの、素敵な方です。シャルツ陛下も、彼女なら宰相の妻として申し分ないと……」

「それは、陛下が宰相の家族だったことがないからだ」

 エリアスを遮る父の声は固い。これはやっかいだぞと眉を顰めるエリアスに、父は強い口調で続けた。

「かつてを思い出せ。冷静になるんだ。宰相の妻が、息子が、国からどんな役割を求められるか。お前が一番わかっているだろう」

「……ですから。それら全てを踏まえて尚、私は真剣に彼女と」

「読みが甘いと言ってるんだ。普通の家の普通の少女として育った彼女には、負担が重すぎる。無理を通せば、しわ寄せは必ず彼女に行くんだぞ」

「私たちがまったくもって無策だと、本気でそうお思いですか? 当然、そう言ったことは散々、二人で話し合ってきました。既に彼女は私の妻となるべく努力を始めてくれていますし、私は全力でそれを支えるつもりです」

「付け焼刃の技術でどうにかなるものか。すぐに限界を迎えることなど、目に見えている」

「さっきからなんなんですか。彼女に会ったことすらないくせに」

 だんだんと苛立ってきて、エリアスの口調も荒くなる。だからだろうか。普段の彼なら決して言わないことまで、勢いそのままに口を滑らせてしまった。

「……だいたい、さっきから聞いていれば、公人がどうとか責任がどうとか。そんな調子だから、家族を贄に出世した冷血漢などと裏で言われるんですよ」

「なに?」

 ぴくりと、父が顔を引きつらせた。これはまずい。そう思った母が止める間もなく、声を低くして父は凄んだ。

「そんな下らない陰口を真に受けていたのか」

「ある程度は事実じゃありませんか。母上には王子の乳母をやらせ、息子には王子の友をやらせ。随分と盤石に、地位を固めたものですね」

「お前、そんな風に私を思っていたのか!? 私が、陛下とお前の仲を繋いだからこそ、いまの地位があるというのに。よくもそんなことを!」

「なるほど、それで父親としての役目は果たしたと。では、言わせてもらいますが!」

 完全に売り言葉に買い言葉。柄にもなくヒートアップしたエリアスは、声を聞いて駆け付け、扉の横で固まっているダウスをびしりと指差した。

「私がまともに育ったのはダウスのおかげです。貴方は宰相の家族という責務を負わせるだけ負わせて、碌に私を顧みることはなかった。私はフィアナさんにそんな非情はしません! 私は宰相である前に、人であることを選びます!」

「ほーお? では、そんな非情を強いた私は人でなしであると!?」

「如何にも! ええ、ええ! そのように、強く主張させていただきますとも!!」

 ぜえはあ、と。いつの間にか立ち上がっていた父子は、息も荒く睨み合う。

 ややあって、父はまっすぐに扉を指差した。

「でていけ」

 母とダウスが、同時に息を呑む。しかし、二人が止める間もなく、父は有無を言わさぬ口調できっぱりと告げた。

「今すぐ屋敷からでていけ、このバカ息子が!!」





「……なぁんてことが、ありまして」

 唖然と口を開くフィアナに、クッションを膝の上に乗せて軽く抱きしめながら、エリアスは軽やかな口ぶりで続けた。

「うっかり父と喧嘩をいたしまして。こうして追い出されてきちゃいました」

「うっかりどころの騒ぎじゃない!!」

「こふっ」

 呑気にほほ笑むエリアスに、フィアナは自身のクッションを投げつける。

「ほんとに、ほんとに! なんでこのタイミングで、お父さんと喧嘩なんかしちゃうんですか、もうーーーーっ!!!!」

 ソファの背に顔を埋め、フィアナはやり場のない怒りを思いっきり叫んだのであった。