「……意味が分からない。はあ! 本当に意味が分からない」

 呪詛のこもった目で睨みながら、キュリオがぶつぶつと呟く。その視線の先には、普段とは違ってカウンターの中央に座るエリアスと、その腕に親しげに腕を絡めたアリスがいる。

 アリスは物珍しそうにきょろきょろと店を見回した。

「エリアスさま、エリアスさまっ。見てください。皆さん、アラカルトでお食事を召し上がっているんですね。こちらには、コースのメニューはないのでしょうか……? というか、皆さんテーブルが小さくて、お困りじゃないんでしょうか? ほら、あそこの席なんてナプキンを置く場所もないなんて……」

「よお、おっさん」

 熱心に話しかけるアリスを遮って、マルスが頬杖をついて横を見る。前を向いたまま、アイスブルーの視線を向けて答えるエリアスに、マルスは呆れたように問いかける。

「それで? どういう心境の変化で、今日は店に来る気になったわけ?」

「まあ! あなたもエリアスさまのご友人なんですね! ということは、あなたも、そしてあなたも??」

 エリアスが答える前に、アリスはわざとらしく両手を合わせて、声を弾ませる。カウンターに並ぶ3人――自分たちを睨む、キュリオ、ニース、マルスを順番に見やったアリスは、髪を揺らして無邪気にほほ笑んだ。

「お会いできて光栄ですっ。私、アリス・クウィニーと申します」

「そう。私はエリアスちゃんの友人のキュリオ。こっちは同じく友人のニースとマルス。んで、この子が!」

 こめかみに青筋を立てた笑みで、キュリオがちょうど通りかかったフィアナの肩を抱く。

「エリアスちゃんの()()で、この店の看板娘。私たちのフィアナちゃんよ」

「まあ。お会いできて、光栄です」

 挑戦的なキュリオの目にも負けずに、アリスはにこりと微笑む。そして、さも同情しているかのように眉を下げて、エリアスの手を握った。

「――けど。そんなフィアナさんのことも、エリアスさまは忘れてしまったんですよね。だからここに来るのがつらかったんですね、エリアスさま?」

「つ・ら・い?」

 ひくひくと、キュリオが口元を引きつらせる。そんな彼に、アリスはしたり顔で頷いた。

「エリアスさまに相談されたんです。記憶を失ったことで、お会いしづらい方々がいると。だから、私をお店に連れて行ってくださいと、エリアスさんにおねだりしたんです。そういう理由だったら、エリアスさまもお店に来やすいと思って」

「はい。……私を連れてきてくださり、ありがとうございます」

 顔を覗き込んだアリスに、エリアスは笑みを返す。その柔らかな表情に、アリスがぽっと頬を染めるのを見て、フィアナの胸にずきりと刺すような痛みが走る。――それと同時に、微かな違和感も覚えた。

 かつてシャルツに連れられてパーティに参加したときにも、エリアスがアリスに絡まれているのを遠目に見た。あの時の彼は、立場上アリスを無碍には出来ないものの、一定の距離を持ってアリスに接しているように見えた。

 しかし今の彼は、アリスに誠実に――見ようによっては、彼女の気を惹きつけるように振舞っている節がある。

 アリス嬢には色々と問題がある。だからフィアナのことがなくとも、エリアスがアリスを結婚相手として選ぶことはない。そんな趣旨のことを、あの夜シャルツは話していた。

 軽く話を聞いた限り、アリスの()()はここ最近に始まった話じゃない。つまり、たとえエリアスの記憶が直近半年分まるまる飛ぼうが、そのあたりの基本方針に変わりはないはずなのだ。

(エリアスさん……。何を、考えているの?)

 キュリオとはまた違った理由で、フィアナが顔をしかめた、その時だった。

 バンッと扉が跳ね開けられ、来客を告げる鐘がうるさく鳴る。音につられてそちらを見たフィアナは、さっと表情を強張らせた。

「あなたたちは……っ」

「よう、お嬢ちゃん。席は空いているかい?」

 それは先日の騒動を引き起こした男たちだった。見覚えのあるリーダー格の男が、嫌な笑みを浮かべてフィアナに手を振る。フィアナはそれを見るや否や、キュリオやニースが止める間もなく、通せんぼをするように彼らの前に立った。

「すみません。用意できる席はありません」

「そう怖い顔すんなって。悪かったよ、この間は」

 固い表情で見上げるフィアナに、にやにやと笑ったまま男が手を合わす。

「ほら。そこの奥の席が空いてんだろ。頼むよ。狭くたって、俺たちゃ気にしないからさ」

「無理です。用意できる席が、ないんです」

「だーかーらぁ。椅子だけ寄せ集めてくれたらいいから……」

「フィアナ」

 フィアナの肩に、厨房から出てきた父が手を置いた。そのときになって、初めてフィアナは、自身が小刻みに震えていたことに気づいた。

 促されてフィアナが一歩下がると、代わりにベクターがずいと前に出る。店主は大きな体を存分に生かし、男たちを真正面に見据えた。

「……帰ってくれ。あんたたちに出す酒も、料理も、うちにはないんだ」

「はぁ~? そりゃねえよ、おやっさんよ」

 相手がベクターに変わった途端、男の態度が豹変する。喧嘩を売るようにずいと身を乗り出した男は、なめるように父の顔を覗き込んだ。

「そりゃあ、こないだのことは悪かったさ。けど、喧嘩両成敗って、昔からいうだろ? 俺たちが出禁なら、あそこにいる男はどうなんだよ。片方だけ割を喰うってのは、いただけない話じゃねえかい?」

 男がくいと顎を示した先にいたのは、先日男たちの挑発に乗ってしまったニースだ。痛いところを突かれたニースが渋い顔をするなか、ベクターはちらりとそちらを見ただけで、冷静に首を振った。

「大口を叩くのは、前回の損害を払ってからにしてくれ。ちなみに、彼はもう払ってくれたぞ。……ところで、この間の騒動を受けて、警備隊が夜のパトロールをさらに強化したんだ。そろそろ回ってくる頃合いだと思うけれど、どうするかい?」

「ちっ」

 ベクターが挑発に乗らないとみるや、男は舌打ちをした。それから彼らは、ぞろぞろと店の外に出ていく。最後のひとりが消えてぱたんと扉が閉じたとき、店のなかの張りつめていた空気は一気に緩んだ。

 固唾を呑んで見守っていたキュリオが、歓声を上げて立ち上がった。

「いやーん! やるじゃない、ベクター! かっこよかったわー!」

「はあ、ドキドキした! 手に汗をかいてしまったよ」

 笑いながら、ベクターは大きな手でくしゃりとフィアナの髪を撫でる。それでフィアナも、ようやく緊張が解けて笑うことが出来た。

 だが。

「なん、なんですか。今の方々は……」

 その声は、いやに店内に響いた。見れば、信じられないと言わんばかりに大きく目を見開き、アリスが体を戦慄かせていた。

「エリアスさまは、あんなならず者が出入りするような店を……こんな店を、気に入ってるっていうんですか? 乱暴で、粗野で、人の風上にも置けないような人間が来るような、ひどいお店を……?」

「待ってください!」

 アリスの発言は、グレダの酒場を愛して通ってくれている人たちにとっても、これ以上ない侮蔑である。だからフィアナは、思わず叫んでいた。

「確かに、この間はトラブルがありましたが、滅多に起きるようなことじゃありません。あんなお客さん、ほかにはいません!」

「でも、そこにいる方と、今の方々は喧嘩したんですよね……? ま、まさか! エリアスさまが記憶を無くされたのは、その喧嘩に巻き込まれたからではないんですか?」

「うっ」

 アリスにどんぴしゃな部分を突かれて、ぐうの音も出ないニースは小さく呻く。それを見たアリスは、水を得た魚のように、店を、客を、フィアナを、こき下ろし続けた。

「野蛮……。ありえないほど、低俗です。エリアスさま。このお店も、ご友人も、彼女さんも、エリアスさまにこれっぽっちもふさわしくありません。こんな方々と付き合っていたなんて、そのことこそが、大きな間違いだったんです!」

 ヒートアップしたアリスは、がたんと椅子を蹴って立ち上がる。そして、まるで救世の巫女にでもなったかのような酔いしれた様で、エリアスの手を握り、瞳を潤ませた。

「エリアスさま。あなたが記憶を無くされて、私は胸を痛めておりました。けれども、これは運命。間違った道を歩まれたあなたを正しく導くために、神が手を差し伸べたのです」

「道を、正す?」

「はい」

 戸惑ったように呟くエリアスに、アリスは強く強く頷く。

「半年の記憶……この店に関わる全てを忘れることは、エリアスさまに必要なことだったんです。行きましょう、エリアスさま。このような低俗な方々は忘れて、私と、あなたが本来いるべき場所へ」

「本来、いるべき場所……」

 導かれるように、エリアスが立ち上がる。銀白の髪がはらりと零れて、澄んだアイスブルーの瞳が真摯にアリスを見つめる。見つめあう二人の様はまるで絵画から抜け出たように美しく、フィアナの心は軋んで悲鳴を上げた。

 ――けれども。

 次の瞬間、エリアスはまるで、氷の化身のような冷たい笑みを浮かべた。

「なるほど。実にあなたは、低俗だ」

「……え?」

 虚を衝かれたアリスが、その場に固まる。

 そんな彼女を置き去りに、エリアスは片手を掲げて高らかに指を鳴らした。

 途端。店の外でわっと騒ぎが起き、大勢の人間が駆け回るような足音と、時折怒声のようなものが入り混じった声が響いた。

「な、なに?」

「何が起きているっていうんだ……?」

 予想もつかない展開に、キュリオやニースも身を縮こませる。ほかの客もざわつく中、エリアスだけは何かを待つように、片手ではしっかりアリスの手を握ったまま、静かにたたずんでいる。

 ふいに外が静かになる。一拍遅れて店の戸が開いた。現れたのは警備隊の制服を着た男で、彼は敬礼と共に高らかに報告をした。

「ルーヴェルト宰相閣下! 先ほど店から出てきた男6名、すべて拘束いたしました」

「ご苦労様です。……さて」

 振り返りもせず、エリアスは淡々と答える。そうして彼は、打って変わって本気で顔を青ざめさせるアリスを絶対零度の眼差しで射抜き、薄く微笑んでこう言った。



「アリス・クウィニーさん。あなたを、グレダの酒場への脅迫、および暴行を教唆した疑いで拘束します。当然、胸に覚えはありますね?」