それからしばらくの間は、平穏が続いた。

 エリアスの手配により、店の周辺を中心に中央通りの警備隊パトロールが強化された。ほかにも、個人的にマルスやニースも目を光らせてくれたためだろう。店を覗いていた怪しい男たちが姿を現すことはなかった。

 エリアスによれば、それらしき男たちは何度かパトロール中に目撃されているらしい。けれども警備隊を見るとすぐに逃げていく。おかげで、フィアナはもちろんのこと、フィアナたちの代わりに買い物等を請け負ってくれているエリアスの家のひとも含めて、恐い目にあうことはなかった。

 このまま何事もなく終わるかもしれない。そうフィアナが安心した頃。

 事件は起きてしまった。





「いらっしゃいませ!」

 賑わう店内に、元気なフィアナの声が今夜も響く。

 時刻は少し遅かったが、明日が安息日のためか店内はほぼ満席。例の男たちの動きがもこのところ落ち着いていたこともあって、フィアナもホールを走り回っていた。

「どうぞ、キュリオさん! たまごの燻製です!」

「ありがとう、フィアナちゃん。今日も忙しそうね」

「はい、おかげさまで」

 お皿を受け取りながら、キュリオが笑いかける。その横でビールをぐびぐびと飲んでいたニースも、ぷはっと息を吐きだしてから身を乗り出した。

「そろそろエリアスも来る頃だな。あいつも、今日はお前が店に出てるから喜びそうだな」

「そうね。まあエリアスちゃんの場合、フィアナちゃんがいなかったらいなかったで、二階まで会いに行けちゃうわけだけど。その点、親公認のお付き合いっていうのはいいものね」

「こりゃ、フィアナの花嫁姿を見られるのも秒読みだな。おいベクター! いまから心の準備をしておいたほうがいいぞ。ひとり娘の旅立ちは、涙なしには見られないだろ?」

「そ、そんなのまだ先ですよ! ニースさん、気が早いです」

 両親に話が飛んだところで、フィアナは慌てて口を挟む。実際、エリアスと付き合い始めてからというものの、父が時たま寂しそうな目でフィアナを見るようになったのだ。やはり父親にとっては、一人娘に彼氏ができるというのは一大事件だったらしい。

 と、そのように、いつもと変わらない平和な時間が流れているさなかだった。

 からんとドアベルが鳴って、新たな来客を告げる。音につられて顔を上げたフィアナは、そこにいた男たちを見て、その場に固まってしまった。

「邪魔するぜ、お嬢ちゃん」

 それは、先日店を覗いていた怪しい男たちだった。見るからに荒くれ者といった風貌の男たちに、ほかの客もしんと静まり返る。ぞろぞろと男たちが空いている席に向かおうとしたところで、異変に気付いたベクターが厨房から顔を出した。

「――すみません、お客さん。いま、空いているのは二人掛け用の小さなテーブルひとつなんです。お客さん方には狭すぎてしまうんじゃないかと」

「いいって、いいって。酒がのめりゃ、俺たちは気にしねえ。椅子だけは頼むぜ? 立ったまま飲んだんじゃ、長く酒が楽しめないからな」

 にやにやと嫌な笑いを浮かべたまま、リーダー格の男が空いている椅子に座る。そのすきに、ほかの男たちも勝手にほかのテーブルの使っていない席を奪って、リーダーの周りにどしどしと腰を下ろした。

 こうなってしまうと追い出すわけにもいかない。ベクターは仕方なく、フィアナを下がらせようと娘を見る。けれども、それを見越したようにリーダー格の男がフィアナを呼びつけた。

「お嬢ちゃん、注文いいかい」

「……フィアナ。いいから」

「お嬢ちゃん!」

 ベクターが制止するのにかぶせるように、男が声を張り上げる。そして、ぎろりとフィアナを睨んだ。

「注文だ。大事なお客が、呼んでいるんだぜ?」

「……はい、ただいま」

 ぎゅっとメニュー表を握りしめて、フィアナは覚悟を決めた。そして、心配そうな父の視線の振り切り、カウンターを出て男たちのテーブルへと向かう。

 そうやって近くに立つと、男は面白いものを見るようにフィアナを眺めた。

「――お嬢ちゃん。根性座っているじゃねえか」

「ありがとうございます」

 目を逸らさずに答えると、男がふっと笑みを漏らす。それから男は、ほかの客と同じようにビールといくつかの料理を頼む。メモをとったフィアナは軽く頭を下げて、すぐに厨房へと引っ込む。その間、男たちの不躾な目線は相変わらずフィアナに向けられていたが、どうにか気にしないように努めた。

 そうやって時間が過ぎ、ほかの客たちも男たちの存在を忘れて再び楽しみ始めた頃。ふいに、ドスのきいた声が店内に響いた。

「おい。何見てんだ、てめえ」

 ぴりりと空気が張りつめる。怒声を上げたのは、例の男たちのひとり。その矛先は、すぐ隣の席で食事を楽しんでいた老夫婦だった。

 怯える夫人を守るように隠しながら、紳士がおろおろと首を振る。

「い、いや。私たちは何も……」

「見てただろうがよ。なんだ。なんか文句でもあんのかぁ?」

 明らかな言いがかりだ。だが、声を上げた男は身を乗り出して老夫婦を威嚇しており、ほかの男たちはにやにやと面白そうに眺めるだけで、それを咎める気配はない。

「おい、あんたたち……」

「待て、ベクター」

 自分の方が荒事の対処には慣れていると判断したのだろう。見かねてカウンターを出かけたベクターを、ニースが止める。店主に代わって立ち上がった彼は、大きな体をいからせて男たちのテーブルへと向かった。

「おい。お前ら、この店の中で荒事は……、っ!?」

 最後まで言い終わる前に、男が動いた。男は素早く立ち上がると、振り向きざまにニースへと殴り掛かった。不意を突かれたニースの頬に、男の拳がさく裂する。その勢いで背後の別のカップルの席にニースが倒れこむと、店内に悲鳴が上がった。

「荒事って、こういうことか?」

 殴った手をひらひらと振って、男が挑発する。その姿に、ニースは起き上がりながらかっと怒りを顔に浮かべた。

「てんめぇ……っ」

「ニース!! 乗せられちゃダメよ!!」

 キュリオの声が鋭く響く。それを聞いたニースが一瞬動きを止めたのを、男は見逃さなかった。男は椅子を持ち上げると、ぶんとキュリオに向けて放り投げた。

「だったら、てめえが相手するか!?」

「きゃあっ!?」

 キュリオの悲鳴が引き金となった。ほかの客も一斉に立ち上がり、悲鳴を上げながらわらわらと店外に逃げ出す。

 混乱のさなか、辛くも椅子はぶつからなかったものの、体を庇ってしゃがみこんでしまったキュリオに、フィアナは駆け寄った。

「キュリオさん、大丈夫ですか!?」

「フィアナ、下がりなさい!」

「ダメよ、フィアナちゃん!!」

 両親とキュリオが、同時に叫ぶ。それとほぼ同じくして、ニースが最初に騒ぎを起こした男の胸倉に掴みかかり、乱闘騒ぎとなった。

 ――悲鳴と怒号がグレダの酒場に響いていたその時。エリアスを乗せた馬車が店の前に到着した。ちょうど次々に客が逃げ出す場面に遭遇した彼は、顔色を変えて馬車を飛び出し、ほかの人々とは逆に店へと駆けこんだ。

 瞬間、カウンターの脇でうずくまるキュリオとフィアナ、そして男たちにより持ち上げられたニースが、まさにフィアナたちのいる辺りをめがけて投げられるのを目撃した。

「――フィアナさん!!!!」

 考えるより先に、エリアスは床を蹴ってフィアナたちのもとへと飛び込んだ――。





「……エリアス、さん?」

 ぎゅっと目を瞑っていたフィアナは、恐る恐る目を開けた。たったいま、エリアスの声がした気がしたのだ。

 つい今しがたまで店内を満たしていた乱闘の音も、なぜか止んでいる。そのことを不思議に思いつつ顔を上げた彼女は、目の前に倒れている人物に目を見開き、悲鳴を上げた。

「エリアスさん!!!!」

 男たちに投げられたニースとフィアナたちの間に飛び込んだのだろう。ニースと折り重なるようにして、エリアスが倒れている。問題なのは、そのエリアスの額が切れて、赤い血がぽたぽたと床に垂れていた。

「な、なんで……。エリアスさん、エリアスさん!?!?」

「待って、フィアナちゃん! 動かしちゃダメ!!」

 パニックに陥るフィアナを、キュリオが後ろから羽交い絞めにして止める。だが、眠るように気絶して横たわるエリアスを前に、フィアナの瞳からは次々に涙が浮かんで落ちた。

「お、おい……」

「行くぞ!」

 血を流すエリアスを見て、男たちも顔色を変える。そして、先ほどまで見せていた血の気の多さなど嘘のように、あわただしく店の外へと逃げていった。けれども、店主である両親やキュリオ、ましてや青ざめてエリアスにすがるフィアナのだれひとりとして、彼らを追いかけることは出来なかった。

 倒れるエリアスのもとに動ける者が集まるなか、ニースも腰を押さえて起き上がった。

「い、いてててて……。うおっ!? エリアス!? どうしたんだ、いったい!?」

「あんたにぶつかって、そのままカウンターに頭をぶつけちゃったのよ! ……大丈夫。呼吸はしているわ。ベクター、すぐにお医者さんを呼んできて。それからカーラ。二階にベッドの用意をお願い。ニース、私たちでエリアスちゃんを運ぶわよ!」

 キュリオがてきぱきとその場を仕切る中、フィアナはただ、はらはらと涙を流しながら呆然とエリアスの手を握ることしかできなかった。