その夜、父に言われた通り、フィアナが店には出ずに2階の居住部でおとなしくしていると、事情を聞いたエリアスが訪ねてきた。

「フィアナさん!」

 フィアナの顔を見た途端、エリアスは階段を駆け上る。そして、勢いそのままにフィアナを抱きしめた。

「え、エリアスさん!?」

「……恐かったですよね。よかった、ご無事で」

 驚くフィアナをよそに、エリアスは長い腕で大切にフィアナを包み込む。

(大袈裟だなぁ、もう)

 フィアナはわずかに苦笑しつつ、おとなしくエリアスに身を委ねる。父からどのように聞いたのかはわからないが、今のところは柄の悪い男に絡まれかかっただけで、何か危害を被ったわけじゃない。エリアスがここまで心配するようなことは、なかったはずだ。

 それでも。

(エリアスさんの腕、あったかい)

 心地よさに、知らずうちに強張っていた肩の力が抜けていく。口では強がっていても、どこかで自分は、昼間の出来事に怯えていたらしい。

 いつもと違って照れ隠しのひとつもせず、おとなしく腕の中に納まるフィアナに、何かを感じ取ったのだろう。フィアナを抱きしめたまま、エリアスは宥めるようにぽんぽんと、大きな手で頭を撫でた。

 それから、そっとフィアナの顔を覗き込んだ彼は、真剣な顔でこういった。

「思い出させてしまうのは心苦しいのですが……。詳しく、お話を伺うことはできますか?」





「なるほど。その男たちに見覚えはないわけですね」

 フィアナから一通り聞いたところで、エリアスはそのように思案した。いつになく真剣な面持ちは宰相として浮かべる表情に似ていて、普段よりもいっそう彼の美しい顔を際立たせる。うっかり見惚れてしまいそうになりながら、フィアナは小さく頷いた。

「一度も見たことがないかと言われると、自信はありませんけど……。でも、少なくともグレダの酒場に来たことがあるお客さんじゃないのは確かです」

「そうですか……」

 この時、エリアスは宰相としての明晰な頭脳をこれでもかとフル回転させていた。

 グレダの酒場は、王都の中央通りのすぐ近くにある。この辺りは王都のなかでも比較的物価が高いこともあり、スラム界隈に住む人間は滅多に足を運ばない。だからフィアナを、純粋に入る店を探して物色して回っていたとは、考えづらい状況だ。

 ――それに、スラムは現在、デリケートな状態にある。以前からスラムを中心に、中毒性のある違法薬物の被害が報告されている。ここからはシャルツやエリアスなど一部の限られた人間しかしらないことだが、そうした薬物の流通に、とある男が関わっているのではないかと嫌疑がかかっているのだ。

 情報がこれだけなら、グレダの酒場を覗いていた男たちと結び付けて考えることはできない。――だが、その男は『彼女』と通じているのだ。

 もし、その豪商が黒で、スラムのアンダーグラウンドと繋がりを持つのなら。そして、()()が、何らかの方法でフィアナを調べ、目を付けたのなら。――彼女が、その繋がりを利用して何かを企んでいるのだと、考えられはしないだろうか。

(いけません。これでは仮定ばかりだ。なんにせよ、情報が足りません。フィアナさんを守るためには、もっと証拠を集めなければ)

 そのようにエリアスは眉間にシワを寄せた。そんな彼を、フィアナは心配そうに見上げた。

「……あの、エリアスさん? どうかしたんですか?」

「ああ。すみません。少々考え事に夢中になってしまっていました」

 我に返ったエリアスは、フィアナを安心させるように微笑む。それから、そっと額に口付けた。

「安心してください。何があろうと、貴女は私が守ります。――明日以降、店の周辺と中央通りの警備隊のパトロールを厚くさせましょう。それから日中は、我が家の使用人をひとり店に派遣します。買い物等はその者に代行させ、皆さんは外出を避けてください」

「え!? 警備隊って……いやいや、大袈裟すぎますよ! まだ何かあったわけじゃないですし、エリアスさんにそこまでしてもらうわけには」

「フィアナさん。これは少しも大袈裟なことではありません。むしろ、何かが起こる前にこそ、対処は必要なのです」

 ぎょっとするフィアナの肩を掴んで、エリアスがぐいと顔を覗き込む。そうやって、アイスブルーの瞳でどこまでもまっすぐにフィアナを見つめた。

「職権乱用、上等です。貴女を守るためなら、私はなんだってする。宰相という立場だって、いくらでも利用してみせましょう」

「けど……」

「ですが、もし」

 尚も首を振ろうとするフィアナを、エリアスが遮る。彼は宥めるようにフィアナの髪を撫でてから、優しく微笑んだ。

「――もし、気が引けるようでしたら、こう考えてはくださいませんか。警備隊のパトロールを増やすことは、グレダの酒場のためだけではない。中央通りに連なる別の店舗、行きかう人々。すべての者を守るために、必要な警戒だと」

「……エリアスさんの、おうちの方々のことは?」

「私の個人的な甘やかし。いつもの、フィアナさんにかまいたい症候群の発症、ということで手を打っていただければ」

 にっこりと笑みを浮かべて答えたエリアスを見て、諦めがついたらしい。フィアナはため息を吐くと、ぽすんとエリアスの胸に体を預けた。

「断っても無駄。これは決定事項なんですね」

「はい。お察しの通り」

 華奢な体を抱きしめ、その肩にエリアスは顔を埋めた。

「……貴女にもしものことがあれば、私の心は張り裂け、死んでしまうでしょう。ですからフィアナさん。人助けだと思って、私に貴女を守らせてください」

 服も、肌も通り抜けて、彼女の命のぬくもりが、心を熱くさせる。この(ひと)を傷つけることは、何人であろうと許さない。彼女を守るためなら、氷にも鬼にもなろう。

 ――そのように、エリアスがひとり決意をしたときだった。

「あ、あの。エリアスさん」

 先ほどまでとは異なり、少々恥ずかしそうな声音がエリアスの耳をくすぐる。もぞもぞと逃げ出したそうな気配を感じつつ、エリアスは固く彼女を抱きしめたまま答える。

「なんです? どうかしましたか?」

「どうって、なんでそんな平然としているんですか!? ここ私の家ですよ? もしも今、お父さんやお母さんが2階に上がってきたら……」

 おろおろと焦るフィアナの声を聴きながら、エリアスはやはりなと頷いた。そろそろフィアナが恥ずかしがる頃だと思ったのだ。

 ちなみに、二人がいまいるのはダイニングルーム。そしてフィアナは、エリアスの()()()()座っている。

 じたばたと足掻くフィアナを相手に、エリアスはほくそ笑む。それから、彼女が逃げ出せないように押さえ込みつつ、敢えて頬に口付けを落とした。

「可愛い心配をしますね、私の天使さま。見られたところで何の問題がありますか。仲睦まじいことは良い事です。喜ぶべきことです。ベクターさんとカーラさんも、私たちを祝福くださることでしょう」

「そういうことじゃなくて!! 気まずいでしょう、恥ずかしいでしょう!?」

「いいえ! これっぽっちも!! 欠片も恥じることはありません!!!」

「いっぺん生まれなおして、恥を覚えてきてください!!」

 ――そうやって、わあわあと騒ぎながら。

 少しは元気を取り戻したようで良かったと。エリアスは柔らかく微笑んだのだった。