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「私、やっぱ今日は帰る」


こんなことを言ったのが初めてだったからだろうか。
ソファにいる彼にそう告げると、彼はスマホから顔をあげ、意外にも驚いたように目を見開いた。


「なんで?」


一人で悶々と考えていると、得体の知れない黒いもやもやがどんどん心に溜まっていってしまう。
ここにいるとつらいと、思ってしまった。
彼が望むものを私はきっと持ち合わせていないのだろう。
彼のことが大好きな癖に、なんだか今日は逃げ出したくなってしまった。

しかし、彼は不思議そうに首を傾げて、長い睫毛をふるりと揺らす。






「明日、休みってこの前言ってたじゃん」




さも、私が彼と一緒にいることが当たり前のように。
この家にいることが当たり前のように。
彼特有の柔らかい声でそう言った。
きっと、本当は私に逃げ出す勇気なんてないことを彼は知っているのだろう。

瞳の奥に少しだけの熱を宿して、私の瞳をじっと見つめる彼。
いつもならしないこんなことを彼がしているのは、きっとその瞳を向けられるだけで私の心臓がどきりと跳ねることを知っているから。


「ね、だから先に寝室行ってて。準備してから僕も行くから」
「……うん、わかった」


そして、今日もいつものように絆されてしまうのだ。