逃げようと身を捩るどころか、顔を背けるのも間に合わない。
手首を握られ引かれるまま、とん、と後ろにいた体にぶつかる。


「お前は昔から、逃げるのが下手だな」


『捕まえた、さゆ』


よりによって今、その声と重なるなんて。
だって、もうあの子がどんな声をしていたかなんて覚えてもいないのに。
それは、雪狐の言葉と少し似ている。
耳ではなく、心の奥の隅っこにうっすら残っているだけなのだ。

頭を撫でられている。
下手だと笑みながら、その手は私を褒めていた。


『兄様』

すぐそこにいるのに、とても見ることができないこの男性を、最早そうは呼べないでいるのを。
思惑どおりに囚われたまま、真っ赤になって縮こまっている私を。
優しく優しく触れながら、昔とは明らかに違う手で『いいこ』だと。


「……っ……!! 」


これ以上熱が上がるなんて辱しめの前に、逃げてしまいたかった。
この人は兄様ではないのかもしれないけれど、私だってあの狡いけれど純粋ではあった童女ではない。


「おいで、雪狐」


ドンッと目一杯男を押したせいで、こちらがよろめいたのを隠すように殊更大声で雪狐を呼んだ。


(……そう言われたでしょう、何度も)


男だ。この人は。
今、ここにいる私にとっても。