「…壱…彼女、いたことあったっけ…?」

「ないよ、仁乃命だし」

「じゃあなんで…」


「どうでもいいよそんなこと」



壱は本当にどうでもよさそうに言って、またキスしようとするから、私はとっさに顔をそむける。



心臓の音が、耳元で聞こえるみたいだ。


知らない壱は知りたくない。

私の知らない壱なんて、知りたくない、知りたく、なかった。



だからずっと聞かなかった。

壱のバイトのこと、壱のピアスのこと、私のいない壱の時間のこと。





こんなところで、幼なじみの勘なんて、発動しなくていいのに。






ふ、と笑みが零れたあと、固まった表情の上を、涙がこぼれた。




――『あれ…もしかして壱くん?』




あの時。


生まれてはじめての、デートの時。


透きとおる声が、壱の名前を読んだ時。





壱は私を置いて、振り返ったんだ。





さっき目を閉じた時、一番近くに壱を感じながら、暗闇で目が合ったのは、万里加さんだった。