腕時計を確認して、寄りかかったコンクリートの塀から顔を持ち上げた。
道路を挟んだ向かい側にあるカーブミラーを見上げ、小さく笑いをもらす。

視力は良い方だけど、さすがにカーブミラーで個人を特定するのは難しい。
その場で咄嗟に出た話を、すばるは本当に信じたのかと考えて、清水の口の端が勝手に持ち上がっていく。

あともう数分もすればすばるはここを通る。

今日もまたお茶に誘ってみようか、この間のカフェならまた一緒に行ってくれるだろうか。

そんなことを考えながら背中で塀を押した。
擦れた服とコンクリートの間でざりと音がする。


冷静に考えると、いや冷静にならなくても。
気持ち悪い自覚はちゃんとある。
今まさにしていること含め、ストーキング行為以外の何でもないと、清水は大きく息を吐いた。

気持ち悪い以外無い。
実際、すばるは何度もそう口に出している。
そして清水も同じ思いを自分に対して感じていた。


ここまで誰かに執着するとは思わなかった。

長い付き合いがあるのは両親か仕事の関係者だけだ。
ましてやひとりの人を特別だと思ったことなんてこれまでは無かった。

すばるもそう、また会えるまでは、昔のことだと割り切ったような感覚だった。
心の中で宝物のようにひっそり光っている『大事な想い出』で、はっきりとしない、掴みどころのないものだった。

それが再会してしまうと一転、いとも容易くひっくり返る。

ここまで歯止めが効かないものかと、自分で自分が気持ち悪くなる程だ。



もうすっかり覚えてしまった足音のリズムに思考は動きを止めた。

空気の流れの中にすばるを見つけだす。

勝手に笑顔になってしまう自分を気持ち悪いと思いながら、今日も束の間の逢瀬を全力で楽しむべしと、清水はふらりと歩きだす。

「おかえりなさい、すばるさん」
「……見えません」
「はい?」
「あ……ただ今帰りました」
「おかえりなさい……見えません?」
「……あれ」

すばるはカーブミラーを指さした。
ふたりの姿は丸く歪んで、今ははっきりと見えている。

「誰かがいるのまでは分かりましたけど、誰かまでは分かりません」
「俺がいるのは知ってるから、俺だって思ったでしょ?」
「…………まぁ」

納得がいかないような顔で、すばるはカーブミラーを見上げている。
ふんと息を吐き出してその下を通り過ぎていった。
清水はふらりとその後を追いかけて、二、三歩で隣に並ぶ。

「俺の話が気になって確かめようと思ったんだ?」
「近くまで来たら思い出しただけです」
「俺のこと考えた!」
「あれ見たからです!」
「そ? 今日はなに食べたい?」
「何も食べません!」
「この前のカフェ美味しかったね」
「何も食べませんてば」
「ええぇぇ……」
「ヒマなんですか?」
「忙しいですよ?」
「……じゃあ」
「すばるさんのこと考えるので忙しいです」
「……考えるのやめたらどうですか」
「うーん……そこが恋の難しいところですよね」
「……こい」
「恋ですねぇ」
「大変そうですね」
「あ、わかります?」
「いえさっぱり」
「即答だもんなぁ……あ、ちょっとこっち」


すばると同じデザインの制服が目に入る。
その男子生徒は歩きながらスマートフォンを操作して、手元だけを見ていた。
このまま直進すればすばると正面からぶつかるコースなので、清水はすばるの腕に自分の腕を絡めて引き寄せる。

にも関わらずすれ違いざまに男子生徒とすばるの肩がぶつかってしまう。

何も言わずそのまま去って行こうとするのに、清水が声を上げる。

「おい! ごめんなさいは?」

謝罪どころか振り返りもせずそのまま遠ざかっていく後ろ姿に、思わず舌打ちが出る。

「……すばるさん大丈夫?」
「……なんか、痛……」

瞬間 鼻をついた匂いに、清水はすばるの前に回り込む。
クリーム色のカーディガン 、脇腹の辺りに小さな穴が開いていた。

「すばるさん、鞄貸して」

ひったくるようにしてトートバッグを自分の肩にかけると、すばるの手を取ってその穴を押さえさせる。

「刺された」
「……は?」
「ここ力いっぱい押さえてて、抱えるよ?」

背中と両膝の裏に腕を回して持ち上げると、すばるはわぁと声を上げる。

「……ちょ……ちょっと止めて。 ダメです、これはダメ!」
「ダメじゃないよ!」
「ダメです、パンツが丸出しです」
「あ! そりゃダメだ!」

一旦すばるを地面に下ろすと、すぐさま縦抱きにして片腕で抱え直した。

「いやだからなんで、こんな……」
「いいからお腹押さえてて」

もぞもぞ動いてすばるは押さえていた手のひらを見下ろした。
小さく赤いものが貼り付いている。

「本当に刺さ……」
「押さえてて……移動するよ」

走る手前の速さで歩き出した清水は、なるべく揺らさないようにするために、すばるの背中を片手でぎゅうと押さえた。

「俺のこと信用してくれる?」
「なに?」
「救急車も警察も呼びたくない」
「わ……たしも警察沙汰はちょっと……」
「俺のこと信用してくれる?」
「もう……する、しか……」
「あー……すばるさん、お願いだから寝ないで!」
「……おなかいたい……」
「分かるよ……でも頑張って、もっと俺に寄っかかっていいから」
「はぎ……さ……よごれる……」
「いやなんの心配してんの……ああ、だめだめ! すばるさんこのまましゃべってて」
「……むり……はなす……こと」
「あーじゃあ! えっと……掛け算!……逆から、ハイ、九九?!」


時々途切れそうになりながらも、六の段の途中で、大人しい色調のタイルが貼られた、建物のエントランスに続く段を跳ぶように上った。

手が震えて鍵を取り落としそうになるのを、なんとか持ち堪えて入り口の自動ドアを開ける。

後ろ向きに見える景色にすばるがもぞりと動いた。

「ろく、し…………ここどこ?」
「俺んち……ようこそいらっしゃい」
「……もう、いいですか」
「まだダメ、続けて。……頑張れ」

素直に掛け算を続けようとするすばるが、そんな場合ではないのに、堪らなく愛おしく感じる。

ぎゅうと抱きしめるとふたりの間でぐちゃりと音がした。

自分の腹に貼り付くシャツに気が付いて、すばるの出血量に清水の方がぐらつくような思いがする。


エレベーターで上がる時間すらもどかしい。

今度は鍵をしっかり握ったまま、落ち着いて玄関の扉を開けて、自分の部屋まで運んでいく効率の良い導線を考える。

その通りに事を運んで、すばるを割れ物を扱うような手付きで、丁重にベッドに寝かせた。

身体を離すと途端に冷んやりと感じることに、咽せるように立ち上がる匂いに、激しく心臓が鳴りだす。

あちこちから必要そうなものを集めて、すばるの横に腰掛けた。

「すばるさん、シャツめくるね」

弱々しく吐き出された息は、返事のために吐き出されたのに、それは音になっていなかった。

目も虚ではっきりと何かを見ている様子はない。

カーディガンを胸まで持ち上げて、スカートからシャツを引っ張り出し、ついでに傷を負った側の背中を撫でて確かめた。

清水は大きめの声ではっきりと、努めて明るく話しかける。

「背中までは突き抜けてないよ、良かったね!……よし! ではこれからぱぱっと傷を塞ぎたいと思います! あと少し起きてて! 頑張れ、すばるさん」

返事の代わりにゆっくり瞬いたのを確かめて、清水はすばるによく見えるように大袈裟に頷いてみせた。

「……覚えてる? すばるさん。俺、すばるさんのおかげで腹のでっかい傷が治った」

手にしたナイフを自分の掌に突き立てて、滲み出てくる血を溢さないように、少しだけ手を丸める。

「あの時と真逆になっちゃったね」

横になったすばるの腿の上に跨がり、清水は溜まった掌の血を、すばるの腹にある小さな穴に擦りつける。

その手でぐいと腹を押さえた。

痛みに呻いたすばるに覆いかぶさって、清水は顔を覗き込んだ。

「すばるさん……口の中舐めさせて」

瞬時に大悪態が頭の中を駆け巡って、すばるはそれをそのまま包み隠さず言葉にして出してやろうとしたのに、間もなく意識が途切れてしまう。

結局すばるは為されるがままに終わった。




「……誓うよ、すばる……ずっと一緒にいる」