楽しく盛り上がっている試合の声を聞きながら、すばるはもりもりとパンを食べる。
得点が絡むようなプレイが始まると、ぴたりと止まって成り行きを見守る。

どちらのチームに点が入っても、良かった良かったと頷いた。


「すばる……さん……こんにちは」

声に振り返ると、先日、頭突きをかまそうとしてきた男性がすぐ近くに立っていた。
深く頷くように頭を下げる。

「この間は、突然すみませんでした」

慌てて上手くパンが飲み込めず、すばるは奇妙な唸り声を上げながら、パックの注ぎ口から、豪快に牛乳を飲み下す。その勢いでパンを喉の奥に流し込んだ。

「……いえ、あの。失礼ですが、どちら様でしょうか。……兄のお友達の方ですか?」

男性は笑顔の合間に、瞬間だけ両眉の端をさげて、すぐにまた元に戻る。

「……小さい頃に一緒に遊んだことがあって……でもよく考えたら見た目は変わってるし、いきなりで驚かせただろうなと思って」
「はぁ……そうだったんです、ね?」

話の最中に、当然のように隣に腰掛けてきた男性に、すばるは少し座る位置をずらして距離を開けた。

その人はまたも残念そうに、ふふと力無い息のような笑を漏らす。



兄の友達関係ではなく、自分と関わりがあったのか。それならば昔のことを思い出そうと、すばるは頭の中の記憶の箱を手探りする。

箱の中身はごちゃごちゃと、何でもかんでも一緒くたに入っているので、これだと掴めるものがない。

もう少し手掛かりがないと、何も思い出せる気がしない。

「あの時は楽しかったな」
「はぁ……そうだったんですねぇ……」

他にもっと何かヒントはないかと男性の横顔をちらっと見る。

見たことに気が付いてこちらを向くと、男性はにこりと笑い返してくる。

蒼井が言った通り、整った顔をしているなと思って、すばるは瞬時にして昔のことを思い出した。



小学生のころ、よく揶揄われて、毎日のように追いかけ回されていたこと、その時の怖さをありありと思い出した。

すばるの背中に痺れのような寒さが上がってくる。


そうか。

そうか、その人たちからしたら、遊んだ、と言えるのかもしれない。
だってとても楽しそうに笑っていた。


喉の奥に大きな塊ができたような気がして、すばるはそれを飲み込もうと、ぐっと喉に力を入れた。

少しずつゆっくりと、鉄のように重くて硬い何かを飲み下していく。

「すばる、さんは覚えてないかもしれないけど……本当に楽しかった」
「……はい……」

本当に楽しかったのだと、その嬉しそうな顔を見ればわかる。

でもそのにこにことした顔にも、弾むような声にも、すばるは鳥肌が治らない。
手足が重く強張っていく。

また楽しそうに追いかけ回されるのかと、そんなことは誰も言っていないのに、昔の思い出が勝手に先走っていく。
忘れたと思っていたのに、こんなにも簡単に、鮮明に、あの時の感情まで思い出せる。


恐ろしさの正体は『知らない』からだ。
それを無くすことを先ずしなくては。
きちんと誰なのかを思い出せ、冷静に考えろと、すばるは自分に言い聞かせた。

「私と、一緒に遊びましたか? いつ頃?」
「すばるさんが小学生の時……ほら、ちょうどあの女の子くらいだった」

男性はグラウンドでサッカーをしている女の子を指差した。
三年生か、四年生か。それくらいに見える。
だとすると、九歳か、十歳の頃の話だ。

現在 高校二年生のすばるよりは明らかに年上。
なんなら兄より年上に見える。
どう見ても成人男性だ。
仮に切り良く五歳離れているとして、十歳の時分に、十五歳の遊び相手なんていた記憶はすばるには無い。

もちろん嬉々として追いかけ回していた中に、そんな年齢の人はいなかった。

そう落ち着いて考え直して、冷んやりとする心の底で、すばるはゆっくりと記憶の箱の蓋を閉じた。

「……すみません、あの……全然思い出せないんですけど」
「だよね……前とは変わったから」
「前と変わったのは、それは私もだと思うんですけど」
「そんなことない。すばるさんは変わらないよ」
「いや、さすがにあの女の子に比べたら、大きいとは思うんですけど」
「そうだね……大きさはね」
「ええっと……そうだ。お名前はなんと言われるんですか?」
「あ、俺の名前は清水。萩野 清水といいます」
「しみず? はぎの?……えっと……んん?」

ぷはと笑うと男性は空中を指差して、宙でふわふわと手を振り回す。

「ややこしいよね……名前の方が清水だよ。よく言われるんだ、どっちも名字だろ、って」

清水は漢字を説明しながら、もう一度丁寧に空中に名前を書いた。

それでもやっぱり、名前が分かったところで、すばるにはこの人と何かをした記憶はない。

にこにこと楽しそうな清水との気持ちの温度差に、いよいよ居たたまれなくなってきて、すばるは接客業で鍛えたスキル、必殺『愛想笑い』を繰り出した。

それとなく座る位置を変えて、少し離れたつもりなのに、すばるのパーソナルスペースに、いつの間にか清水は入り込んでいる。

すばるの愛想笑いに、にこにこと嬉しそうに、清水は本物の笑顔を返していた。

さっきとはまた違った怖さを感じて、すばるは今度は分かりやすく離れて座り直す。

すると清水も分かりやすく眉を八の字にした。

「やっぱりどうしても、その……よく思い出せないんですけど」
「いいんだ、それは。まぁ、思い出してくれたら、その方が嬉しいけど。そんなことよりも、俺がすばるさんとまた会えたことの方が重要だから」
「ああ……そう、なんですね……それは……なんと言いますか」

清水は薄曇りの空を見上げると、顔を顰めて唸り声を上げた。

「ほんと……ごめん。この間と、今と。いい加減 急過ぎるよね」
「そうですね、私も何がなんだか……」

ふむと一息つくと、それを勢いにして清水は立ち上がる。

大きな段差を一段下りて、向かい合わせになり、すばるに片手を差し出した。

「うん。じゃあ、今日はここまでにしよう。俺の名前は萩野 清水。よろしく、すばるさん」

すばるが握手だと思って手を差し出すと、清水はふわりと手を持ち上げて返し、手の甲に顔を近付け、唇を当てた。

余りの唐突さに、すばるはその手を引っこ抜くタイミングを完全に逃してしまった。

「は? ん?! 何したんですか、今。……まさか、いやいや、ここ日本。土曜日の午後。萩野さんは王子様でもなければ、私は篠原 すばるですが、あなた、頭は大丈夫ですか?!」

ぶはと吹き出して、軽く笑い声を上げると、清水はじゃあねと楽しそうにその場を去って行った。

手の甲に残ったなんとも言えない感触をどうにかしたくて、すばるは手をぶんぶんと振って、腰の辺りでごしごしと拭った。





「おかえりなさい、すばるさん」
「あ……はい、ただいま帰りました」

明けて翌週からは、放課後の帰り道には欠かさず清水が現れた。

最初の数日、清水はすばるの学校の校門前で待っていた。
目立つし気持ち悪いからやめてくれと素直に言うと、いつの間にか何も約束はないはずなのに、待ち合わせのようになっている。

ここ、という場所は決まっていない。清水は毎回決まった場所ではなく、どこかからふらりと現れて、にこにこと笑いながらすばると並んで歩く。

「今日はパン屋でバイトだよね」
「……ですね」

もうすでにスケジュールも把握されている。

「お店まで送ります」
「……ていうか、あの」
「うん? なあに?」
「萩野さん、仕事は?」
「してますよ?」
「こんな時間にふらふらできる仕事……」
「ねぇ? 普通の会社勤めなら、こうはいかないよねぇ?」
「普通の会社勤めじゃないってことですね」
「そうですね、家族経営……っていうのかな? フリーで仕事を受けてるから、こんな時間にふらふらできるという」
「はぁ、そうなんですね」
「俺に興味出てきた?」
「……特には」
「そ? なんだ、残念」

初めに会ったその日から思い返しても、清水は確かに昼日中から、スーツや作業着といった仕事姿ではなく、動きやすそうでカジュアルな格好だった。

どんな仕事をしているのか、気にはなるけど、それはちょっと知りたいだけで、是非とも聞きたい話なわけではない。

「……ヒマなんですか?」
「時間はあるけどね。ヒマではないよ」

遠回しの質問には遠回しの解答。
それすら清水は楽しんでいるようだから、すばるはいい加減面倒くさくなってくる。

こっちはヒマも時間も無い。

「私をかまっても何も無いですよ」
「何かあるから来るわけじゃないよ」
「意味がわかりません」
「俺が会いたいから、会いにきてるだけ」
「あぁ……そうですか」
「……迷惑?」

迷惑とまでは思わない。
ただバイトに行くまでの間や、帰宅の途中までの少しの時間、一緒に歩きながら話をするだけ。

特に嫌なことを言ったり、何かしてくるわけでもない。

少しの間一緒に歩くだけ。
だから逆に、余計に思う。

「いや、何してんのこの人……と思ってるだけです」
「はは。ほんとにね……でも俺はすごく楽しいから」
「……良かったですね」
「はい」

バイト先の店の前で、じゃあここでとすばるは振り返る。
清水はにこにこと笑って頷いた。

「すばるさん、明日はバイトが無いでしょう? だからどこかに寄り道しようね」
「……ぇぇええ?」
「スイーツでもごちそうしましょう」
「いやぁ、それはどうですか」
「何が食べたいか考えといて?」
「……ごちそうとかいいので、店で買い物していって下さい」
「はは……しっかりしてる!」
「パンはお嫌いですか?」
「すばるさんが包んでくれるなら、喜んで」
「うわぁ……」
「……なに?」
「気持ち悪いですね、萩野さん」
「良いね! もっと俺のこと考えて!」
「……ぅ……ぅわあぁ……」



清水はその日、ひとりでどうするのかという量のパンを購入して帰っていった。