ガラス扉を開けて、受け付けの居ないカウンターの奥側に、勝手に入っていく。
すばるは事務所に続くドアをノックした。

すぐに中から達川の軽い返事が聞こえる。

「いらっしゃ〜い、待ってたよすばるちゃ……おおぅ……」

上から下までを見られて、やっとすばるは自分を客観的に見られるようになった。

改めて考えてみると、確かに通常の姿とはかけ離れている。

清水のお下がりのコートは、血が変色して黒っぽい染みが至るところに付いているし、中のセーターも明るい色の分、赤茶色が目立つ。

鏡を見てないから知らないが、顔だって徹夜開けで薬物中毒者みたいだろうし、さっきまで泣いていたので、それはそれは酷いものだろうと想像はつく。

明るい事務所内だから、それも浮き彫りだ。

「スプラッタだね〜。絵になるなぁ〜」
「……こんばんは」
「はい、こんばんは〜……さあさあ、持ってきたものをここへ入れて〜」

達川は片手に持っていた白木の箱を開けて、空っぽの内側をすばるに見せた。

握っていたマフラーを開いて、直接触れないようにナイフの先を箱に入れる。

達川はそのナイフの先を一見して、ふぅんと得心したように声を出して蓋を閉じる。

どこから取り出したのか、紙の封を、何事か呟きながら貼り付けた。
紙の封は筆書きの文字が書いてあるが、達筆過ぎてすばるには読めない。

「ま、こんなもんですか?」
「あ……すごい」

さっきまでの醜悪な空気が、嘘のように消えたのが分かる。
すっきり無色透明、軽くなったような気もする。

「なんていうか、楽になりました」
「そっか〜よかったよかった」
「なんですか、この箱が凄いんですか?」
「ん〜? 凄いのは俺ちゃんね」
「これなんて書いてあるんですか?」

紙の封を指さすと、達川はにやりと笑う。
目尻のしわが何本か増える。

「おまじない」
「おまじない?」
「俺ちゃんちょっと得意なの」
「なるほど……?……あ、そうだ。くるりさんはどうですか?」
「あ〜そうそう、すばるちゃんが見付けてくれたんだってねぇ。ありがとうねぇ〜」
「いえいえ……思ったよりすぐ見付かって良かったです」
「あいつ、あちこち骨が折れててねぇ……さっきまでぎゃーぎゃー叫んでたけど、今はいい子に寝てるよ」
「ぎゃーぎゃー?」
「うん、ハイジが骨を継ぐのにぎゅんぎゅん引っ張ってたから」
「うわぁ……でももう大丈夫なんですね?」
「ああ、うん。心配してくれてありがとね〜。清水の方はどうなの?」
「はい……今は落ち着いてるって感じですけど……」
「そっかぁ〜。ま、仕事は無事に終わった後のことだからその辺は心配しないでね」
「そうだったんですね……たっつんさん、何があったかご存知なんですか?」
「いや、くるりからチラッと聞いただけだからなぁ……急に複数で襲われたって」
「…………はい」
「狩り人だからって、くるりひとりで逃がされたんだけど……まぁ逃げないよね」
「……ですよね」
「で、結局あのザマなんだけど」
「……私、あのくるりさんは初めて見ました」
「ま、あれが正体なんだけどね」
「いたち……?」
「あ! よく知ってるね」
「田舎育ちなんで……でも近くで見たのは初めてです……そうか……いたち……可愛いですね」
「見た目だけはねぇ、愛らしいけど」
「けど?」
「妖ものだからね〜」
「あやかしもの……」
「狐や狸より高度に化けられるんだよ、知ってた?」
「いえ……でも、前から色々に姿を変えて、凄いなって」
「相手の心を読むのも得意だし」
「……やっぱり……ですよね」

これまでにも質問する前に答えを返されることは多々あった。
心を読まれていたのなら納得だ。

くるりが何者なのか、いつも聞こうと思う前にはぐらかされる。

内緒にしたいのかなと考えて、あえて誰にも聞かないことにした。
そう決めると、それでいいんだよとくるりは笑っていた。


べちゃという音が聞こえて、それがした床を達川とすばるは同時に見下ろす。

ふたりの足の間に、血の塊が落ちていた。

「わあ、ちょっとすばるちゃん?!」
「え?! 私ですか?!」

達川がすばるの右手を下から掬って、握っていたマフラーを除ける。

「お……おおぅ……ぐっちゃぐちゃ……」
「あら〜……」
「もう〜すばるちゃんたら、痛いなら痛いって言いなよ」
「……ああ、まぁ、それどころじゃないっていうか……」
「……ちょっと手ぇ洗っておいで」
「はい……」
「取れるところは全部落とすんだよ……痛いと思うけど」
「う……は……はぃ」

排水が詰まったらいけないので、給湯室のシンクに連れて行かれる。

ずたぼろの手を、恐る恐る流水の下に持っていくが、思ったほど痛くなかった。
血と一緒に、ほろほろと落ちる皮膚や肉を擦って落とした。
新たに滲んでくる血は滴るほどではないので、これも魂分けパワーなのかとすばるは仏像のような顔になる。

「よく洗った〜?」
「あーはい……シンク掃除しないと」
「いいよぅ、俺ちゃんやっとくし」
「いやいやいや」
「ケガした手でどうやって掃除すんのさ」
「……左手で?」

呆れたようにため息を吐いて、達川はすばるを明るい事務所に連れて帰る。

透明な液体を振りかけられ、その匂いにすばるは首を傾げた。

「お酒?」
「そうそう……ありがたーいお神酒だよ」
「おみき……」
「すばるちゃんの手は呪われてる状態なんだけど」
「…………は?」
「うんまぁ、そういう反応になるよね〜」

達川は慣れた手つきで細く裂いた白い布をすばるの手に巻き付けていく。
合間に何か呪文のようなものを唱えたり、何事か書かれた紙片を挟んでいく。

巻き終わりの端に、達川は筆で字を書き込んだ。

「はい……これでよし。いい感じになったら勝手に外れるから、それまで自分で取らないようにね」
「…………はい」
「何その胡散臭そうな顔」
「あ、じゃなくて……字がお上手過ぎて読めないなって……」
「うーん、いや別にマジックとかでも良いんだけど、(こっち)の方が雰囲気あるでしょ?」
「で……すね。なんて書いたんですか?」
「ちちんぷいぷい、早く良くなりますように……って」
「いや、絶対違いますよね!」


目が覚めたら清水に飲ませるようにと、ありがたーいお神酒をもらい、傷口に貼るようにとおまじないが書かれた紙をもらった。

お礼を言って帰ろうと出入り口に向かうと、達川に呼び止められる。

「すばるちゃんワーウルフになっちゃったの?」
「……あー。……ずいぶん近い感じになっちゃいました」
「そっかぁ……」
「そんなに見た目が変わりました?」
「いやぁ……迷いが消えてスッキリって顔してるから」
「たしかに……してますね、すっきり」
「……ようこそ」
「はい?」
「ようこそ、アンダーワールド(こちら側の世界)へ」
「『夜の子』ですね」
「立派なね」



屋上から、灯りの減った町を見下ろした。

ビル風が髪をさらさらと撫でていく。

細長く吐き出した白い息も、後ろに流されて消える。

抱えているお神酒の入った大きな徳利と、ポケットの中のお札を手で確かめる。


ビルの縁に乗り上がって、外階段の屋根の上、隣のビルの給水塔、鉄柵の上を走って、また隣。

これまでは割と集中していたことがすんなりと楽に出来る。



足を置く場所を探して跳びながら、けんけんぱをする子どものようだとすばるはにこりと笑った。



立派な夜の子どもは、冷たい風の中を駆けて、暖かい家に帰る。