『あー……ごめんごめん。起こした?』
「いや……どうした」
『うーん……ちょっと……ハイジに頼みたいことが』
「なんだ」
『いやぁ…………大変不本意なんだけど、俺のお願い聞いてくんない? 心底……いや、地の底から不本意だけど』
「いいからさっさと本題に入れ」
『…………すばるさんのこと……お願いしていい?』
「………………は?」
『俺の代わりに……すばるさんを大切にしてくんない?』
「何言っ……今どこだ!」
『ははー……しくった』
「清水!」
『あとついででいいから……くるり回収してやって……多分生きてるから、ぺちゃんこにされてたけど』
「だから今どこだ!」
『川だねぇ……橋の下…………約束してハイジ』
「断る……今から行く」
『……ま、断られるだろうと思ったけど、期待はしていますので』
「……くそが!」
『くそだねぇ……ごめ……ちょっともう、本気でムリっぽいので』
「おい!」
『よろしくしてね……ほんとごめんて、すばるさんに伝えて。……ごめんなさいって』
位置情報を頼りにすばるは堤防の上の遊歩道を走る。
きんと冷えた空気の中に、湿り気と温度を感じる川の匂いが混ざる。
どくどくうるさい心臓の音に、黙れと一度強く胸の上を叩いた。
落ち着けと繰り返し、清水の痕跡を探ろうと顔を持ち上げる。
微かな風の中に、わずかな血の匂いと、それに混ざる甘ったるい匂いを嗅ぎとった。
粘着質で、気分が悪くなるほど甘い。
強い不快感で胃の辺りがむかむかする。
内臓ごと口から出そうな嫌悪感だ。
その匂いがする方向に堤防を駆け下りた。
ススキや背の高い草ががさりがさりと乾いた音を立てる。
草をかき分けて進んだ先、幹線道路の高架下、冷たいコンクリートの上で真っ黒な影の塊を見つけた。
どこからか反射しているわずかな明かりで、ふわふわとした銀色の縁取りが目に入った。
ぴたりと足も、息も止まる。
「…………ウルフィー…………し……しみずさ……」
重たい足を踏み出して、どうにか前へ進み、たどり着くと跪いて上から覗き込む。
「しみずさん!…………しみずさ……どうしよ……あ、でん……電話」
莉乃に連絡したいのに、手が震えてなかなか思うようにならない。
目もよく見えない気がして、邪魔な涙をぐいと袖で拭った。
呼び出し音がワンコールもしないうちに通話が始まる。
どうだったと聞こえた莉乃の声はいつもより低く聞こえた。
それで少しだけ落ち着いて、何とか答えようと声を出す。
「倒れてます……血がいっぱい……出て……それで」
『どこから血が出てるの?』
「お腹です、あと傷から内臓が……」
『息はある?』
「…………はい、ゆっくりで、でもあんまり……」
『すばるさん。すばるさんの方こそ、しっかり息をして。いい? 清水君は人の姿かな?』
「ウルフィーです……」
『うん……服はどう?』
「ふく?」
『周りにある? ない?』
「……あ、あ、すぐ近くに上着とか靴とかが……」
『そっか…………すばるさん連れて帰れる?』
「……はい」
『じゃあ、お願いね。待ってるよ』
「……はい!」
電話を切った直後にバイクのエンジン音に気が付いた。ハイジが呼ぶ声が聞こえて、ここだと返事をする。
すぐに草をかき分けてハイジが堤防を下ってきた。
「すばる!」
「ここです! 莉乃さんが待ってるので、連れて帰ります……私、行きますね!」
「運べるのか」
「ハイジさん担いで走ったの覚えてます?」
「……だな」
「はい」
「…………くるりを見なかったか」
「え? くるりさん?」
「あいつもどこかで死にかけてる」
「そ……え……」
「探せるか」
「わたし……でも……」
「すばる!」
大きな手がすばるの両肩を掴んで、一度大きく揺さぶった。
鋭い目線がすばるを射抜く。
「俺が探したんじゃ時間がかかる。……頼む」
「…………はい」
莉乃からもらったマフラーを外して、ウルフィーの腹にぐるぐるに巻いて、きつく縛った。
ぎゅうと一度縋ってからすばるは立ち上がる。
「……この近くに?」
「それもわからん。くるりの位置情報は随分前から消えていた」
「……なにかあったら呼んで下さい」
「……ああ」
くんと鼻を鳴らすと、吸い込んだのは清水の血の匂いと咽せるような甘い匂いばかりで、すばるはぐしゃりと顔を歪ませる。
涙は止まらないし、膝はがくがくして、今にもこけてしまいそうなほど頼りない。
こけたら最後、立ち上がれる気がしない。
ばちんと両手で頬を叩いて、そのまま涙を拭った。
すばるの頬に清水の血の筋が走る。
勘を頼りに、さらに川上の方に向けて、すばるはふらふらと走り出す。
また草の中に飛び込んで、かき分けて進んで行くと、草の匂いが強くなる。
暗闇の中で光る目は、草が少しばかり折れたり曲がったりしている場所を見つけた。
草の倒れている方向に進む。
「……くるりさん?」
小さな声で呼びかけると、遠くでこそりと小さな物音がする。
「すばるです、くるりさんですか?」
きゅきゅと答えが帰ってきて、すばるはその場所に急いだ。
草むらの中に、くるりが着ていたであろう子供サイズの白いパーカーと、その中に丸く蹲る茶色でふわふわの毛皮を見つけた。
「……見つけた……帰りましょう、くるりさん」
両手に収まるほどのまん丸は、すこし長く伸びて、頭の方がすばるを見上げる。
真っ黒でつぶらな目は町の明かりを小さく映して、鼻がひくひくすると、まわりのヒゲもさわさわと揺れた。
「動けます?」
持ち上げていた頭を下げて、再び丸まってしまう。
「私が運びますね」
パーカーで包むようにして持ち上げ、腕の上に置くと、それに沿うように体を長く伸ばした。
どこか痛むのか呼吸は弱々しいし、苦しそうな声が漏れる。
細長い体と比べたら釣り合いの取れていない短い足が、力無くぷらぷらとしている。
もしかしたら足が折れているのかもと、すばるはなるべく揺らさないようにハイジの元まで走った。
「くるりさんですよね」
「……だな……こっちもか……こいつは俺が連れて帰る」
「はい……くるりさんお大事に」
ハイジの腕の中に寝かし入れてから、すばるはくるりの長細い背中の毛を、そっと指先で撫でた。
清水に覆いかぶさって、息の音と、心音に耳を傾ける。
「脱げてる服は……」
「回収する、任せろ」
「血とか……」
「いいから行け」
「……はい!」
ウルフィーを向かい合わせになるように抱えて持ち上げる。
背中と尻の下を支えて、すばるはふかふかの首元に顔を埋めた。
「……がんばって清水さん。ちょっと揺れますよ」
いつか聞いた台詞を今度は自分が言っていることに、奥歯を噛みしめる。
ぐと漏れた声が聞こえたのか、ハイジがすばるの背中を押した。
「腹を括れ、迷うな、思考を止めるな、余計なことに足を取られるな、行け」
「……ぅ……はい!」
家に帰って、玄関扉を開けた途端、莉乃はきつく眉を寄せる。
英里紗に離れろと命令をする。
そう言われるより前から、英里紗はじりじりと少しずつ後ろに下がっていた。
「……ありがとうすばるさん……このまま部屋に運んでくれるかな?」
はい、と頷いてすばるは清水の部屋に向かう。
通路を後ろから付いてくる莉乃が、ごめんねと声を漏らす。
「ごめんね……僕はもうこれ以上清水君に近寄れない」