傷が治ってからのおれは、テリトリーを少しずつ広げて、あちこちを行ったり来たりしていた。

ここに逃げ込んできた時は、もちろんそれどころではなかったので、ひとつも気にしていなかったけど、ここら一帯、のどかな風景が広がっている。

こんもりとした小さな鎮守の森と、小高い山。
畑や田んぼ、人の住む住宅がちぐはぐに混ざったような地域だ。

おれの家がある場所よりも、ずいぶんと緑が多い。

大人も子どもも、人はそんなにたくさん居ない。

それでも物陰から物陰に、人には見つからないように行動していた。

もしかしたら再び襲われるかもしれない。
どこかに敵が潜んでいるかもしれない。
おれは用心しないといけない。

慎重に行動するべきだと、最近 身をもって知ったばかりだ。
それが考え付く程度には、賢くなれた。
失敗するのも悪いことばかりではない。


でもそれが、すばるのことになると話が変わってくる。

小学校から帰ってくる姿を見かけると、周りのことはあまり気にならなくなる。
足が勝手に走り出していく。
すばるもおれの姿を見ると、嬉しそうにして走り寄ってくる。
ずいぶんと抱っこも上手くなったし、あいさつの鼻ちゅうも慣れたものだ。


しはらくここに居て、分かったことは数えきれない。

出会ってからこれまで、なんて生傷の絶えない子だと心配していたけど、それが何故なのかはすぐに明らかになった。

理由はよく分からないが、すばるがからかわれたり追いかけられたりする姿を何度も目撃した。

逃げれば追いかけたくなる。
おれにはその気持ちもよく分かる。
でもどうしてそんなにも追う必要があるのか、おれにはよくわからない。

遊んでもらいたいからなのか?
なでなでしてもらいたいからなのか?
だからってすばるは嫌がっているのに。

転んだり、ケガまでしているのに。
まだやめないなんて、おれはそんなことは許さない。

おれの目の前でそんなことが起こった時は、すばるを庇って、そいつらの前に割り込んでいく。
威嚇しながら唸り声を上げる。

そうするとどんなに威張ったような奴らでも、おれには敵わない。

一声吠えればぴたりと動かなくなるし、少し追いかける素振りをすれば、ぴゅうと逃げていく。

そんな時すばるは、少し寂しそうな顔をして、ありがとうという。
それで少しだけ笑うんだ。

その後は『至福』を味わう。
おれは抱っこされ、神社まで戻ってから、背中も腹も、体中。これでもかと撫でられる。
それもすばるの膝の上でだ。

撫でられ疲れるのも、それがとてつもなく心地良いことも初めて知ることがてきた。



ここ最近 野犬が出るとウワサになっている。

もちろんおれのことだ。

ただおれは、大人の人間の前に姿を晒すようなヘマはしていない。
出没するのは小学校から子どもたちが帰宅する時間帯のみ。
目撃情報は、嫌がるすばるを追いかけ回すような悪ガキだけからしか出てこない。
普段の悪ガキたちの態度から、大人の人間も、そこまで本気で相手にしていなかった。

ただ何かあってからでは遅いからと、その時間帯に大人の人間もちらほら見かけるようになった。

そうなるとすばるを追いかけていた奴らが大人しくなるし、おれの出る幕が無くなるから、あいつらの前に出ていくこともなくなる。

それが毎日続けば、いつか早いうちにケガをしない日がくる。

おれも人間に見つかることもなくなるし、いいことだらけに思えた。



先生から野犬を見たのかと話を聞かれたが、すばるは知らないと答えたらしい。

寝転んで腹を撫でられながら夢うつつでその話を聞いた。

「……ウルフィー、あんまりウロウロしたら、見つかって連れて行かれちゃうよ」

すばるは保健所という場所がどんなに悲しいところなのかをおれに説明した。
授業で教わり、テレビでもそんな番組を見たのだと言う。

檻に閉じ込められ、早いとこ飼い主が見つからないと『処分』されるのだと、悲しそうな声を出す。いつの間にか目からはぽろぽろと涙をこぼしていた。

心配するな、すばる。
おれはそんな所には行かないからな。

ほっぺたを舐めてやると、すばるはおれをぎゅうと抱きしめる。

「きゅうにどこかに行ったりしないでね、ウルフィー」

行くわけないだろ。
おれはずっとお前のそばにいてやるからな。
ありもしないことに怯えるのは時間の無駄だぞ、すばる。

そう言ってやりたいけど、残念ながら人の言葉はしゃべることができない。

すばるがおれを大事にしてくれるように、おれもすばるに気持ちを伝えられたらいいのに。

おれはふらふらとしっぽを揺らしながら、ぐりぐりと頭を擦り付けることしかできない。

大丈夫だからな。
心配するな、すばる。



日暮れが近くなると、必ず『かずくん』が神社まで迎えに来て、ふたりは一緒に帰っていく。

おれはいつもかずくんが現れる前に、近くの茂みに身を隠すので、かずくんはおれのことを知らない。

おれもかずくんの顔をきちんと見たことがない。

知っているのは、声とか匂いとかの気配みたいなものだけだ。

いつもすばるを連れて行ってしまうから、おれはかずくんが嫌な奴だと思っている。

でもすばるには優しいのを知っているから、腹は立つが、まぁ、任せてやってもいいかと思うことにした。

おれはかずくんの前に飛び出していったり、唸ったり吠えたりしないでやる。


かずくんに手を引かれ、社の角を曲がる時、茂みの中にいるおれに、すばるはにっこりと笑って、かずくんには見えないように小さく手を振る。

おれもしっぽをふらふらと振る。

しっぽに当たった葉っぱがかそこそと鳴った。





そんな日が続いた夜のこと。

月が眩しいくらいに明るい夜だった。

もうずいぶんと遅い時間に、すばるは懐中電灯ひとつだけで、おれのいる社までやってきた。

遠くからしている足音は、完璧にすばるだと分かったけど、こんな時間にやって来ることに少し驚いた。

誰もが寝静まるような時間だ。
それなのに夜道をひとりで歩いてやって来た。

誰にも見つかる心配がないので、おれは神社の外まで迎えに行ってやる。

出迎えに喜んでいたすばるは、でも、泣いていた。

ひとりで怖かっただろう。
おれがいるからもう安心だぞ。
どうしたんだ、なにかあったのか。
家で寝ている時間だろう?

ぶんぶんとしっぽを振っているおれを抱っこすると、神社の階段をゆっくり登っていく。

おれを抱っこしたせいで、懐中電灯は変な方向に向いて、夜の木を照らしていた。
足元は真っ暗だ。
おれはこの月明かりでも平気で走れるけれど、人にはよく見えないんじゃないかと心配になる。

それでもよろけたり、転んだりせずに、しっかりと歩いていた。
おれを抱っこしたまま、いつもの社の裏側に回って、いつもの場所に座る。

上着の袖で涙と鼻水を拭くと、おれにぎゅうと抱きついた。

「ウルフィーのおうちはここ? ……わたしもずっとここにいたいなぁ……」

それっきり何も言わないままだった。


どうしたんだすばる。
もっと話をしてくれ。
そうじゃないと、何が何だかわからないぞ。
なんで泣いているんだ?
また誰かに追いかけられたのか?


空が白んでくる時間、日の昇る前に、すばるはおれを置いて帰っていった。

耳の裏がみょわみょわする。

なんだかいい感じがしない。

心配になって、おれはこっそり後を追いかけた。

すばるは無事に家に到着して、静かに、音を立てないように家の中に入っていく。

おれはそれを見届けてから寝ぐらに戻った。



その時を最後に、すばるの姿は見なくなった。

音もない。
濃い匂いも。
どんどんすばるが薄まっていく。

どんなに探してもどこにもいない。
すばるの家には、もう誰も居なくなっていた。



そしておれも思い出した。
帰る場所があったことを。

おれのいるべき場所はここではない。
すばるが居ないなら、なおさらのことだ。
帰る時がきたのだと、しばらく世話になった神社を後にした。

ずいぶんと長い時間戻らなかったから、心配しているかもしれない。

ひどく怒られるだろうか。
それとも帰ったことを喜んでくれるだろうか。
あきれたと笑われるだろうか。

心配されているかと心配しながら、おれはおれの居場所にひたすらに走った。