「はい、ほんじゃこの誓約書よく読んでもらって……OKならサイン下さい」
「……はい」
「質問あったら遠慮なくね〜」

こくりと頷いて、すばるは達川から差し出された書面に目を通す。
誓約書と特別難しい言葉を使っているが、内容は大きく三点のみで、内容もシンプル。
すぐに読み終えることができた。

上からの指示には従うこと。
自身の命の確保は自身で行うこと。
これに反して依頼の遂行が不備、または失敗に終わった場合の責任は一切負わない、といった内容だ。

金銭的なことは仕事量や内容によって変わるので、都度、増減がある。

すばるは拝崎の助手になるべく、見習いからのスタートなので、直属の上司であるハイジのさじ加減でお給金が決まると説明を受けた。

静かな事務所内にかしゃかしゃとキーボードを打つ音だけが響いている。

ソファに座って、ローテーブルを挟んだ向かい側では、達川がタバコを吸っていた。
手には携帯灰皿を持っている。

その横にソファにあぐらをかいて、すばるより年下の、どう見ても少年にしか見えない人物が、ノートパソコンで何かを打ち込んでいた。

「達川さん……」
「…………」
「…………たっつんさん?」
「なになに? 質問?」
「ペンを……サインするので」
「あっ、ごめーん。はいどうぞ……え〜? ほんとにサインしちゃうんだ?」
「え?」
「……いいのかなぁ、こんなウラ若き乙女が裏社会に踏み込んじゃって。あ! 韻踏んじゃった!」
「……たっつんさんが向いてるって」
「向いてるんだよなぁ、確かに。でも普通の仕事もあるんだよ? 下のお店とかでお洋服売ったりとかもあるんだよ?」
「……やめた方が良いってことですか?」
「でも向いてるんだよね」

へにょりと両方の眉の端を下げて、すばるは持っていたペンをテーブルに置いた。


皆が事務所と呼んでいるそこは、萩野家のあるマンションから徒歩にして10分ほどで到着する、12階建てで洗練された雰囲気のビルの最上階に入っていた。
下階は全て貸店舗で、会社事務所から飲食店や服飾雑貨店、カルチャースクール等々、普通のお仕事はたくさんあると達川は説明した。

我らがオーナーはこの地域内にいくつもビルを所有しており、このビル全体、萩野家のあるマンション、その他多くの業種を手広く経営しているらしい。

「たっつんさんおすすめのお仕事は?」
「すばるちゃんの可愛さと、年齢、その他諸々から判断するに……暗殺業?」
「暗殺業に見た目は関係なくないですか?」
「なんでさ! 可愛さは重要でしょ!」
「そうですか?」
「絵になる!!」
「……はぁ」
「まぁそのドライさと、身体能力を有効活用しないとね」
「じゃあ、やっぱり……」
「……え〜? ほんとに良いの〜?」
「たっつんさん?!」
「大丈夫でしょ……多分だけど」

ノートパソコンを触っていた少年が、すばるが事務所を訪れて、初めて口を開く。

「そうぉ?」
「少なくとも『やっぱり私できません!』とかは言わないよ」
「あら〜。そりゃ上等だわ〜……お前の座とって変わられるんじゃね?」
「この人が嫌がるよ、あいつ使えなくなるってがっちり理解してるもん……ね?」

にこりとこちらに微笑んだ少年に、つられるように、すばるが笑い返す。

「ほ〜ん……んじゃいっか! YOUさっさとサインしちゃいなよ!」
「はぁ……じゃあ、はい」

さくっとサインし終えると、書類を達川の方に差し出した。

「……はい、確認いたしました。まぁこれで晴れてウチの一員になった訳です」
「はい」
「とりあえずしばらくはハイジにべったりくっ付いて、あいつの指示に従うように」
「……はい!」

じゃあ早速と達川は電話をかける。
ほんのひと言ふた言で通話は終了して、ハイジがすぐに来るから待機するようにと告げられた。

ハイジはほんの数分ほどで事務所に現れる。

「お〜ハイちゃん、お疲れちゃ〜ん」
「……決めたか」
「はい! よろしくお願いします!」
「……いいのか? その……アレはなんて言ってるんだ」
「あれ?」
「……清水」
「ああ……特に反対はされませんでしたけど」
「…………そうか」
「今どうしてんの? 絶対来ると思ってたんだけど」
「え? あ、清水さんですか? 清水さんなら、お家でお昼ごはん作って待ってるって」
「ぶふぁっ?! あいつが?!」
「マジか……」

すばるに付いて事務所へ一緒に行くと一点張りだったが、すばるが保護者同伴はあり得ないと突っぱねて、それに賛同した両親にもがっちり止められ、泣く泣くお米を研いでいた。

「……なにあいつ。いつから主夫キャラに」
「ていうか、ここ最近酷いよ。にやにやにやにや気持ち悪いったら無いんだから、もう……」
「きゃんきゃんうるさいしな……」

三者三様に意見を述べた後、視線はすばるに集中する。

「え?!……何ですか? 私?!」
「家事のかの字も無かった男が」
「女なんて性欲処理にしか見てなかったのにね?」
「ね〜? ここまで執着するかね〜」
「嫉妬著しいもんね?」
「我関せずもなりを潜めたしな……」
「怖いわ〜」

好き放題言った後、再び集まる注目に、すばるは眉間にシワを寄せる。

「……私のせいですか?」
「まぁ、面白いから良いんだけどさ」
「……何事にも変化はある」
「変わり過ぎだけどね〜?」
「気持ち悪いけどねぇ?」
「別に……私、何もしてないですけど」
「まぁねぇ……恋しちゃったのはあいつだしねぇ」
「……こい」
「ま、こっちはそうでもないってのが、また面白いんだけどね」
「……無駄話はもういいだろう。篠原 すばる、付いて来い」
「あ! はい! 今日からよろしくお願いします!」

がっと立ち上がってばっと頭を下げるすばるに、ハイジはうむと頷いた。

「あら、ハイちゃんもよろしくしちゃうんだ」
「……まぁ、少し様子を見てみる」
「くるりは?」
「良いんじゃない?」
「え?! くるりさん?!」
「そうだよ」
「相方さんの?!」
「うん、よろしくー!」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」

ふわふわ笑ってひらひら手を振るくるりに向かって、すばるは改めて頭を下げる。

「……うん、まぁ、このように子どもの見た目に左右されず、ちゃんと出来るのは好感触だよね」
「なるほどねぇ〜」
「達川だってこの形なのに、敬意をはらって貰ってるじゃん」
「おい! Tシャツ馬鹿にすんなよ! 伝説のデスメタバンドTぞ!! すばるちゃんは、俺ちゃんの隠しても隠しきれないオーラに圧倒されたんだよね?!」
「…………ステキなTシャツですね」
「わぁ……気ぃ遣ってもらってる〜」

このまま長引きそうだと踏んだハイジは、ふんと息を吐いて、無言で部屋を後にしようと振り返った。

その後を慌ててすばるは付いて行く。


ハイジとふたりでエレベーターに乗り込む。
扉が閉まった後、ハイジは鍵を取り出して、階数表示ボタンの下にあるパネル部分を開いた。

銀の蓋がするりと下にスライドして、現れたのは別の表示のあるボタンだった。

「……わぁ! すごい、どこ行きですか?」
「……地下だ」
「スパイ屋敷!」
「……屋敷じゃない」
「……ですよね」
「スパイでもない」
「……はい……存じ上げてます……地下のどこへ?」
「三階だ……射撃場がある」
「スパイ屋敷!」
「……違うぞ」
「……ですよね」

昼食までの一時間弱は、ハイジの後を付いて回って、設備の案内と説明をされた。

呼び出されたらすぐに来いと、連絡先の交換をする。

もう帰れと言われ、すばるは萩野家へと昼食に誘ってみたが、ハイジに苦い顔で断られ、すばるはひとりビルを後にした。

ハイジから二本の鍵を預かる。

地下へ行けるエレベーターの鍵と、先日の倉庫の鍵だった。

アパートの部屋の鍵に付いていたかわいいキーホルダーを付け替えようと、すばるはきらりと光る二本の鍵を見てにんまり笑う。



萩野家に帰れば清水べったりだったのは言うまでもない。



昼食の後、腹ごなしに屋上で運動することになった。
午前中のルーティンだったのがずれ込んだとも言える。

軽く準備運動を終えると、機嫌を持ち直した清水に、にこにこされつつ問題を出された。

「すばるさん、これなーんだ」
「あひる?」
「の形の?」
「キッチンタイマー」
「三分計ります」
「その心は?」
「鬼ごっこしよう!」
「鬼ごっこ?」
「うん! 俺が鬼、すばるさんが逃げる」
「はい……」
「逃げる範囲は、この屋上の中」
「すぐに捕まっちゃいますよ」
「だからこその制限時間三分」
「三分……三分も無理な気がするんですけど」
「逃げ切ったらすばるさんのお願いごと聞いてあげる」
「……なんでも?」
「何でも!」
「…………は! じゃあ! 一日中ウルフィーで!」
「は?!…………う…………ぐ…………いいョ」
「やった! よし! やる気出た! 何が何でも逃げ切ります!!」
「…………俺が勝ったらキス!」
「は?!」

時間がくればくわくわではなく無機質な電子音が鳴るキッチンタイマーのボタンを清水は押した。

「10秒おまけしてあげよう、にぃーい!」
「え! ちょっと待って!」
「ほら逃げて! ごぉーお!」

すばるは焦りながらも、真剣に清水から逃げ切ることを考えた。

平面に遠く離れたところで勝てないことはすぐに察せる。そもそもの足の速さで敵わない。

なら、多少なりと時間をかけて行く場所でなくてはならない。

すばるは辺りを見回して、北側のアルミ製の柵に目が止まる。

頭より高いそこを乗り越えて、屋上出入口の裏側に回り、清水が追い付く前に反対側からまた柵を乗り越える。

それを繰り返せるだけ繰り返すことに決めた。

すばるは柵を乗り越えて、向こう側で清水が追ってくるのを待つ。

「じゅーう!……行くよ?」
「う……どうぞ」

清水が一歩踏み出したタイミングで、屋上出入口の扉が開く。

マンションの住人らしき女性が、大きなビニール袋を提げて現れた。

「あ、どうも。こんにちは〜」
「…………こんにちは」

清水が大きな袋に視線を落とすと、女性はそれに気が付いて、重そうに袋を少しだけ持ち上げた。

「あ、お天気が良いので、ここでご飯でもって……」
「……ああ、そうですね」

すばるは内心でよし!と思いながら、ちょうど死角になるように、出入口の壁に静かに身を寄せる。

「えー? なんか言った?」

背後から聞こえる男性の声に、女性は振り返る。

「んー? 先客がいらっしゃるから、あいさつした……だけ」

女性が振り返った瞬間に、清水は柵を乗り越えて、すばるの口を押さえて、出入口の裏側に回り込む。

声もなく静かにと笑って、清水は上機嫌だ。

「……誰も居ないじゃん」
「…………いや、いや! いたんだってば!」
「……え? ほんとに?」
「いたって! 男の人が」
「……透けてなかった?」
「……やめてよ! いたってば!」
「ガチでヤバいのって、リアルに生きた人に見えるらしいよ」
「…………ホントやめて!! てゆうか、ここヤダ!」
「あ、おい……ねぇ、どこで食べんのー?」

ふたり分の足音が遠ざかって行くのを聞きながら、清水はキッチンタイマーの時間を止めた。





にやりと口の端が片方、これでもかと持ち上がっていく。



「俺の勝ち」




口を押さえられたままで、すばるはむごむごと抗議したが、清水に聞き入れてはもらえなかった。