「……知ってたんですよね?」
「……知ってました」
「ずいぶん前からこうだったんですか?」
「……………………です」
「なんで!……って、教えられても信じられなかっただろうけど」
「俺への嫌がらせだし……今までのすばるさんなら気付かなかったみたいだし……これ以上は無いと判断したんで」
「これ以上は無いって……」
「何か無くなったりした? 大事なものとか」
「いえ……そんなことはないです、多分……でも……」
「黙っててごめんなさい」
「あ……やまってもらっても……困ります……けど」

すばるはベランダから部屋を見渡して大きく息を吐き出した。

くっきりとした手形、足跡がある部分がもやもやとして見えている。そこだけに陽炎があるように、空気が揺らめく。

ニオイの痕が目に見えるなんておかしいが、初めての感覚は、そうとしか表現しようがない。

大切な書類や、少ないながらも現金がしまってあるローチェストは、触られてはいるものの、引き出しを開けられたような形跡はない。

クローゼットの扉も、撫でられたような、くっきりと尾を引くような手形は見えるが、取手部分は触れられてない。

「何なんですかコレ……ほんと、嫌な感じがする……気持ち悪い」
「天敵なので……本能が拒絶っていうか」
「天敵?」
「アンデッドです」
「あんでっど?」
「吸血鬼ですね、分かりやすく言うと」
「きゅ……いやいや、またまたぁ……はは」
「ははは……ねぇ? ホント」

さっきまでこれでもかと犬の姿だった清水が乾いた笑い声をあげているのを横目に見て、今まさに生理的な嫌悪感がする現状に、すばるは素直に話を飲み込むしか無い。

「天敵って……食べるとか、食べられるとかの話ですか?」
「ああいや、相性が悪いってヤツです……寄ればケンカみたいな」
「犬猿の仲……」
「あ! 上手い!! アイツらサルか! 言い得て妙!!」
「自分が犬なのは良いんですね」
「まぁよく言われるんで、慣れますよね」
「……ごめんなさい」
「すばるさんのことじゃないですよ! アイツらに、です。もう腹も立たないっていうか」
「はぁ……そうなんですね」
「昔は殺し合ってたみたいですけど」
「え?!」
「まぁ気分が悪いのはこの通りなので……」

やったやられたの世界なのは、数百年前なら当たり前だった。
いまだに深い因縁が消えない一族同士もあり、見えないところで潰し合い、なお闘いが続いていたりもする。
清水が言い、すばる本人も感じている嫌悪感は、本能から湧き上がるもの。
それはお互い様の話で、決して自分の意思でどうこうできるものでもない。

世界にそう決められた通り、頭数を減らしたり減らされたりを繰り返す。

ただ新しい世代は、だからと言ってお互いを消し去るまで野蛮なことはしなくなったのだと清水は笑う。

「まぁ、やり返しときましたけど」
「やり返した?」
「似たようなことを」
「……何を?」
「似たようなことです」

にっこり笑った顔がそれ以上聞くなと言っているようで、すばるは深追いするのを止めることにした。

「危ないことはしないでくださいね?」
「…………すばるさん?!」
「はい?」
「結婚!!」
「だからしませんてば!!」

大きな声を出した後、静まった部屋でこんこんと扉をノックする音が響く。
すばるはびくりと肩を竦めた。

庇うように半歩踏み出して腕を前に出され、すばるは清水を見上げ、ぴたりと息を止める。

「すばる? 居るのか?」
「…………かず君?」
「おー。開けろよ、カギ出すのめんどい」
「……待って今……」
「すばるさん?」
「あ……」

この状況を見られるのは、どうも不味いと判断したすばるは、口の前に人差し指を立てる。清水に兄が来たと小声で説明した。

清水もすばるの兄のことは覚えていたので静かに頷いて返す。

手を引いて脱衣場の扉を開けて清水を押し込む。トイレよりはそっちの方がちょっとは広いからと、すばるなりに少し気を遣った。
清水のバッグとその近くにあった服を掴んで放り込み、勢いよく扉を閉める。

どうやったら兄にさっさと帰ってもらえるかと考えながら、玄関のドアを少しだけ開いた。

「どうしたんですか、かず君。珍しいですね、こんな時間に」
「お前、電話出ろよ。何やってんだ」
「え? 電話……ごめんなさい気が付かなかった」

そういえばスマホはトートバッグに入れたまま、勿論それどころではなかったので、一度も、意識すらしなかったことを思い出す。

「学校どうした」
「えっと……体調が悪くて……」
「そうなのか?」
「昨日からずっと寝てて……」
「電話に出ないくらい?」
「……はい」
「……いいから入れろよ」
「ちょっと……無理です」
「何でだよ」
「本当にしんどいので……」
「そうは見えないけどな」

隙間程度にしか開いてないドアを、力尽くで引こうとしたところを、ぐと押さえる手がのぞく。

すばるの真後ろにはにっこり笑顔を携えた清水の姿があった。

「すばるさんのお世話は俺がするんで」
「あ?! おい!!」
「…………なんで出てくるんですか……」
「こいつ何だよ!」
「……もう、やだ……」
「大丈夫だよ、すばるさん。……初めましてお兄さん、萩野と言います」
「あ?! 誰だって聞いてない、何だって聞いてんだよ」
「すばるさんとお付き合いさせてもらってます。結婚の約束もしました」
「こいつ、何言ってんだ?! すばる!」
「……ほんと、何言ってんでしょうね」
「待て! どうして裸なんだよ!」
「え?! ……なんでまだ服着てないんですか?!」
「まだってどういうことだ!!」
「落ち着いて下さいお兄さん」
「うるせぇな! 俺はこいつの兄さんなんかじゃねぇ!!」

あまりの収集の付かなさにへなへなとその場にしゃがみ込んだすばるは、ゆっくりと両手で顔を覆う。
溶けて消えたい一心で、力無く息を吐き出した。

外に開こうとする力と、そこで止めようとする力で、扉の蝶番がきしきし音を立てている。

「……知ってますよ? でもすばるはお兄さんだと思ってます」
「俺は妹だなんて思ってない!!」
「……お兄さんがそんな子どもみたいな態度ですばるに接してくれて感謝します。でも残念。すばるは俺のですから」
「何言って……」
「近いうちにそちらのお宅にご挨拶にうかがいますね」
「…………は?」

はいはいと反対の腕を伸ばして、ドアノブを握っていた手をするりと退かせる。
呆然としている兄に更ににこりと笑い返して、清水はゆっくりとドアを閉じた。

苛々と足を踏み替えるような音が続いていたが、しばらくすると遠退いていく。

荒く階段を駆け下りる振動さえ伝わるようだった。

しゃがんでいるすばるを包み込むように、背後からゆっくりと清水は両腕に手を添わせる。

「大丈夫? すばるさん」
「……大丈夫に見えますか」
「……見えない」
「どうしてくれるんですか」
「俺的には良い流れなんで」
「どこがですか?!」
「この上ない牽制……」
「はい?!」
「あとすばるさんの鈍感さもナイス」
「何の話ですか?!」
「気付いてないもの」
「何に!」
「教えない」

どうにもならない歯痒さをなんとかしたくて、辺り構わず暴れたくて、とりあえず清水から逃れようとじたばたするも、可愛いと逆に締め上げられる。

疲れて脱力すると、やっと腕が緩まった。

「……荷造りしよっか?」
「…………ひとりになりたい」
「帰ったらいくらでも」

手形のある気持ち悪い部分には触らないようにして、すばるは渋々と大きな旅行鞄に必要なものを詰めていった。

手伝おうとした清水はすばるにぐいと押し除けられると、残念そうにいつもウルフィーが寝そべる辺りに腰を下ろす。

「お風呂に下着が干してあったね?」
「……ウルフィーが来てた時もそうしてましたけど?」
「その時はそういうの何とも思わないんだよね、不思議と」
「今は違うんですか」
「うん。おーいえー ってなるね」
「……ああそうですか」
「あの濃い水色のやつみたいの好き」
「……ああそうですか」
「持っていかないの?」
「いきますよ! 服も下着もそんなたくさん持ってないんで!」
「おーいえー」
「…………ちょっと黙ってもらえますか」
「おーいえー」



荷物をまとめて部屋を出ると、扉の外側にはお洒落で質の高そうな紙袋が置かれていた。

中にはいつも兄が運んできてくれる生活用品、シャンプーやコンディショナー、ボディソープが、立派な化粧箱に揃って並んでいる。