どうも居る場所が無い気がして、すばるはベンチに座ったまま動けないでいた。

そこからあちこちを見回して、目に入るものを観察する。
とはいえそもそもから家具も生活に必要そうなものも少ないので、ぼんやり一点を見つめたり、指のささくれを見たりして過ごした。


人の気配がしたかと思うと、奥にある通路から、昨夜会った莉乃が現れた。
おはようと柔和な笑みを浮かべている。

「お……おはようございます」
「清水くんは?」
「食事を買いに、近所のコンビニに行くって」

立ち上がろうとすると、そのまま座っているようにと手で示されて、すばるはぺこりと頭を下げて、座り直す。

「そっかぁ……あれ。もぅ、清水君たら気が利かないな。何も出さずに、ごめんねぇ?」
「いいえ、その。お構いなく」
「て、言っても僕コーヒーしか淹れられないけどね」
「……莉乃はパンが焼ける……」

莉乃の背中には英里紗が引っ付いている。
電車ごっこのように連なって、英里紗は莉乃の背中に顔を埋めていた。ふたりは連結したままカウンターを回ってキッチンに向かう。

「食パンをトースターで焦がさずに、って話でしょ」
「私も清水もこがすもの……」
「君たち加減しなさ過ぎなんだよ……すばるさん、コーヒー飲める?」
「あ、はい」

背中に英里紗を貼り付けたまま、頭上の戸棚から食器を出したりと、莉乃は手際良く準備を始めた。

「清水君いつ出て行った?」
「あ……と、15分くらい前です」
「ふーん……じゃあもうすぐ戻るかな」

後ろに下がって英里紗を挟み潰したり、腰に回っている腕をするする撫でさすったり、それはそれは仲が睦まじそうに見えて、すばるは目のやり場に困ってしまう。

「あの……お手洗いをお借りできますか?」
「うん、どうぞどうぞ……場所は?」
「いえ、すみません」
「こっちこそごめんねぇ。ほんと気の利かない子で申し訳ない」

説明された通りに通路を行って、扉を開ける前に左右を確認した。
入ったはいいが出る時に方向を見失いそうだ。

個室に入ってワンピースをめくり、もう一度自分の腹を確認した。

最初見た時は気持ちが上滑りするようでよく見てなかったが、清水の言う通り薄っすらと傷が残っている。
判子を押されたようにその分だけ肌の色が白っぽく、少しへこんで見えた。

痛みは刺されたばかりの時を思えば、嘘のように引いている。何かの間違いだったと思いたいが、下着は赤茶色く染まってごわごわしていた。

パンツはすごい有り様なのに、自分の肌は血染めでないことに、清水に色々されたのかとやっと思い至る。

顔に力をぎゅうと入れて、熱くなってくるのを頬を叩いて誤魔化した。


リビングに戻ろうと洗面所の横を通過する。
扉が開いていたので何気なく中を見ると、すばるの制服がハンガーで吊り下がっていた。
行く時は死角になる位置なので気が付かなかったのかと、中に入って制服を手に取る。

多量に出血したのはすぐに察しがついた。

刺されたであろう場所を中心に、その下部にあたる場所の色がくすんで見えている。
スカートも腿の部分まで錆びたような色が被せられていた。

カーディガンに開いた穴に指を突っ込む。こっちは繕ってごまかせそうだが、シャツの穴はそうもいかないかと考え、その前にこれ以上血を落とすのは難しそうだなと思い直した。

洗濯洗剤らしい良い匂いに混ざって、鉄臭い匂いまでしているような気がする。

「制服……いくらだったっけ……」

予備はないのでしばらくは夏物で我慢するしかないかと肩を落とす。

寒くなるまでにどうにかしようと、落ちていた目線を持ち上げてハンガーに手をかけた。

「洗濯、ありがとうございました」
「ええ? いいよ、お礼なんて……あんまりきれいに落ちなかったね」
「……そうですね」
「それもう着られないねぇ」
「これはちょっと……無理ですよねやっぱり」

ダイニングに着いている莉乃は、今度は横に英里紗をべったりと引っ付けたまま、にこりと口の端を片方持ち上げた。

「普通の人には見えないレベルだけどねぇ」
「はい?」
「人間にはそれは見えないよ?」
「え?」
「その匂いも分からない」
「え? そ……え?」
「一度目じゃこうはいかないもんなぁ……三度目って感じもないから、二度目だね!」

びしりと犯人を見付けた名探偵のように人差し指を立て、すばるを指す。
魂分けのことかと解釈できたので、すばるはぎこちなく頷いた。

「あの……そう、聞きました」
「ふーん……あの子全然そういうこと話さないからねぇ……ふーん……二度目かぁ。ならあの執着ぶりも納得」
「……あの?」

おいでおいでと手招きされて、すばるは莉乃の向かいに座ろうとした。
いやいやここに、と隣をぼんぽんと叩いている。

「え?」
「いいから早く早く、帰ってきた!」

清水が帰ってきたような、そんな雰囲気はしないが、莉乃に急かされて、言われた通りに横に腰掛ける。
見ててと片目を閉じてにっこり笑う莉乃につられて、よく分からないまま引きつった笑いを返す。

程なく足音が聞こえ、鍵の動く音、外の音や空気の入れ替わりと一緒に、清水が戻ってきたと分かった。

がさりとビニール袋の鳴る音、靴を脱いでいるのさえ、その時にとんと手で壁を突いた音さえ、すばるの耳は拾っていた。

何もないような静かな部屋にいたから気が付かなかった。

音や匂いの情報量に目を見開く。

すっきり目が覚めたような、水の中から飛び出たような、明瞭な感覚。

息を飲んで莉乃に顔を向けると、さも楽しそうに微笑んだまま頬杖を突き、空いた方の手ですばるの頬をするすると撫でる。

「え!……えっと!」
「静かに……見てて、面白いよ」

どたどたと近付いてくる足音が止まったと思うと、ばさっと袋が落ちる音が聞こえ、次の瞬間にはテーブルに乗り上がって、目線を合わせるような低い体勢で清水がこちらを睨んでいた。

「…………何してんだ莉乃」

びゅると風を切る音がしたと思ったら、その後には数メートル向こうの床に、とんと清水は降り立ってしゃがみ込む。

「…………あんたこそ莉乃に何すんの?」

風の音の元は英里紗なんだと、目の前に出されている細い腕を見て、すばるもやっと何が起きたのか察した。
英里紗はそれでも眠そうに莉乃の肩の後ろ側に顔を埋めていて、すばるにはその表情は見えない。

うふふと笑うと莉乃は手を叩いた。

「見た? 今の。清水君カエルみたいだったねぇ?」

面白いねと笑っている莉乃と、こちらを睨んでいる清水とを交互に見る。

「何のつもりだ、莉乃」
「すばるさんを僕らにちゃんと紹介しないからだよ」
「紹介って何を……」
「魂分けしたね?」
「……それが何だよ」
「初めてじゃないね?」
「……なんで」
「すばるさんから聞いた」

はぁと大きく息を吐いて、脱力したようにその場に胡座をかいた。
清水は両手で顔をごしごしと拭う。

「一度目はすごく前だよ……偶然だった」
「へぇ? 聞いてないよ?」
「後から知って気が付いたんだ。それに、もう会うこともないと思ってたし」
「ふーん? でなんで二度目があるのかな?」
「刺されたから!」
「救急車呼んで、清水君はその場を離れれば良かったんじゃないの?」
「そんなことできるか!」
「……回復が早いわけだね」

顔を上げた清水は、眉の両端を下げ、身体中痛そうな顔ですばるを見上げた。

「すばるさんが好きなんだ……」
「……身勝手な」
「そんなこと分かってる!」

ぴりぴりとしたふたりの会話に、しんと静まった空気に、何がそこまで深刻なのか、すばるは把握出来なかった。

それでも自分を助けてくれた清水が言い募られているのは何だか申し訳ない気がしてくる。

「私は……ありがとうと思っています……よ?」
「そ? ならいいや! 清水君、何買って来たの? 僕もお腹空いちゃった!」

くるりと変わった態度に、すばるはついて行けなくて、若干あわあわとする。
それは清水も同じなのか、虚を突かれたような顔で、それでもふらりと立ち上がった。

落とした買い物袋を拾ってテーブルの上に置き直す。

がさごそと探って、買ってきたものを並べ始めた。

「いやぁ、朝から麻婆丼はないわ」
「……何が食べたいか分からなかったから」

色々と並べられた中で、ああでもないこうでもないと莉乃は食べ物を物色している。
自分が食べたいものと、自分の妻が欲しがりそうなものを目の前に置いた。

「ちょ……先にすばるさんが選ぶんだよ」
「あー。そうか、そうだね。すばるさんどれがいい?」
「いえ、私は何でもいいので……」
「じゃあ、麻婆丼?」
「……さすがにそれはちょっと」
「ほら。清水君、センスないなぁ」
「いや、甘いものと同じくらい辛いものも好きでしょ……だから」

自分の好みをすっかり承知されているようで、すばるは身の置き所なくもぞもぞとする。

「ね、ねぇ。それはいいけどさ、すばるさん。ちょっと、もういい加減、梨乃から離れてよ」

あと改めて気が付いて、すばるは反対側の席に移った。
すすとその横に清水が腰掛ける。

「すばるさんサンドイッチは?」
「はい……あ、でも」

テーブルに乗った透明の四角いパッケージに手が伸びる。


辛いものと同じくらい好きな甘いもの。


チョコレートケーキを手に取った。


清水がそれを見つけて自分の為に買ってきてくれたのかと思うと、すばるはなんだかその気持ちがくすぐったい。