あっさりとコートを脱いで、呆然としている私の前でやわらかに笑った。
「佐藤さん、お気遣いありがとうございます。お気持ちだけ、受け取らせてください」
「いえ……」
私の反応をしっかりと見つめてから、長い脚で役員室に入って行ってしまった。
今日はこれ以降の用事がないはずだから、定時すぎには帰宅できるのかもしれない。珍しいとは思いつつ、専務が吸い込まれていった扉を呆然と見つめていた。
「さ・と・う・ちゃん!」
「はい」
後ろから声がかけられて、上ずりそうになった肩を落ち着かせながら振り返る。
視界の真ん中で、当然青木先輩が仁王立ちしている。にまにまと笑っているその人は、何か私を困らせることを言うつもりらしい。
「専務はダメよ~」
「ダメ? ですか?」
「ふふふ、もう人のモノだもの」
橘専務が突然薬指に指輪を嵌めて出勤しだしたときには、大騒ぎになった。秘書課から一歩出るたびに同期を筆頭に様々な社員に声をかけられるようになった。
『結婚したの?』
『あの橘さんを射止めた女性って?』
『お見合いって聞いたんですけど』
エトセトラエトセトラ。
何一つ答えることもできずに曖昧に言葉を濁せば、気分を害したと思われたらしく、あれ以来特に声をかけられることは多くない。
そもそも私が橘専務付きの後任に据えられた理由も、この真顔らしいから崩れないほうがいいのだろう。


