「口紅、ついた?」

「……ついて、な、いです」

「あれ、残念」


見せつけようと思ったのに。


軽く笑って言った遼雅さんが、指輪の抜けた手を再び取って歩き出す。

どういう意味ですか、と問う暇もなく遼雅さんが世間話をはじめてしまった。


「気持ちのいい朝だね」

「あ、はい。そうですね。今日は一日中晴れの予報ですよ」

「あはは、俺は柚葉さんと手を繋げるからうれしくなってただけなんだけど。なおさら良いことを聞いた」

「手は、毎日繋いでますよ?」

「うん、毎日うれしい」


橘夫妻の朝は、ゆったりマイペースだ。

吃驚して黙り込めば、繋ぎ合わせていた指先を軽くなぞられる。ぴくりと肩を上ずらせるだけで笑う人に翻弄されるまま、エレベーターまでの短い道を二人で歩いた。

誰にも会わずに中に入って、遼雅さんの熱い指先が1階を押すところを見つめていた。

マンションから出た瞬間に、私と遼雅さんは秘書と専務に戻ることになる。惜しむように指先を撫でられて、胸がきゅっと詰まってしまった。

橘遼雅に落ちない人は、果たしているのだろうか。


「柚葉さん?」

「あ、おります」


声をかけられて、一緒に1階エントランスへ降りた。出入口で手を離して見上げれば、すこしさみしそうな瞳と視線が絡んでしまう。