「……あれは」


思わずつぶやいたら、俯いていた女性がすっとこちらを振り返った。ひどく、冷たい表情のその人は、こちらに向かってゆっくりと歩いてくる。


「――あかねさん?」


横で、ぼうぜんとした声が聴こえていた。

振り向いて、それが誰なのか問いを立てる暇はなさそうだ。

とにかく、状況がよくないことだけは分かる。恐ろしい体験をする時、人は不思議と体が動かなくなるものだ。


「どろぼうねこ」


聞いたことのない声が鳴った。

狼狽えているうちにすぐ目の前に詰め寄ってきた人の手が、大きく振りかぶられる。


「佐藤さんっ!」


橘専務がこんなに大きな声を出しているところを見ることになるとは、夢にも思わない。

同じく、聞いたこともないような音が耳にぶつかって、衝撃で目が回る。叩かれたのか、殴られたのか。理解できずに体がふらりと倒れかけて、誰かに後ろから抱えられた。


「佐藤さん!?」

「あ、」


何かを伝えなければならない気がしている。

遠くで誰かが騒ぎ立てていて、頭が回らない。どうしてこんなことになったのか。

上から覗き込む人の顔は今日も綺麗すぎて、見ているだけでおこがましい気分になってしまう。


「た、ちばなせ……、わた、しはだいじょう、」


最後まで言い切れたのだろうか。

わからないまま、優しい匂いに包まれて瞼が下りてしまった。