いつか夏、峰雲の君


 風が唸る音だけが、ただそこに響いていた。


 雪に沈む足はまるで鉛のように重く、脳髄から釘を打つ様な痛みが襲いかかる。


 それでいて意識は鮮明と、エベレストの峰を捉えていたのだ。


 思い出の中の夏希が、限りなく近くにいる。十年。僕たちを隔てていた壁を、今越えようとしているのだ!


だからどうか止めないでくれ、勝平——


『登吾、今すぐ下山しろ。山頂付近の天気が怪しい』


突き抜けるような晴天の下、ベースキャンプから入った一通の無線。その言葉に、僕はただ「うん」と一言だけ返した。


『おい登吾、俺の言葉聞いてたか……? 今すぐ下山しろって言ったんだ。分かるよな?』


長い付き合いだ。きっと僕の考えも、行動も、彼には全て筒抜けなのだろう。だからこそ、あとは理解をしてもらえばいい——


「ごめん勝平……。もうすぐ、もうすぐ夏希に会えるから、待たせちゃ悪いから……」

『別に待たせてもいいだろ……? 俺たち友達なんだから。来年だってチャンスはあるよ。夏希は待っててくれるって!』

「けど——」

『いい加減にしろ——!!』


その瞬間、焦燥が弾ける音が無線の向こうで響き渡る。


『頼むから現実見てくれよ! 夏希は死んだんだ、戻ってこないんだ! 目ぇ覚ませよいい加減!』


声が震えていた。あの勝平が、どんな時でも笑って僕の背中を押していた彼が、今僕の十年を否定するのだ。


 5000メートルもの距離を越えるアナログ電波。それが彼の声を呼吸を食い縛られた歯の軋みさえも、正確に僕の鼓膜まで届けたのだ。


『死んだ奴よりも生きてる人のこと考えてくれよ……! お前の両親も夏希の両親も、雲ばぁだって釜倉先生だって、みんなお前を待ってるんだ! 俺だって、夏希だってきっと……! 夏希に合わせる顔がないんだよ……お前にまで死なれたら……!』


 ふと、はらりと舞い落ちる粉雪が僕の肩を叩いた。

 気がつけば満ちてきた雲海が辺りを飲み込み、世界を一色に染め上げる。何よりも澄んだ純白、既視感。


 この色は、この光は——


「——夏希」