そんなある日、丁度僕が十二の年を数えた頃だった。真っ青だった僕の魂に、純水よりも透き通った白が描かれたのは。


 雪の様に柔らかく、それでいて綿毛のよりも優しく描かれた一滴の純白。


 それは自然と魂の中で沸き立ち、僕という青色のキャンバスの中央で見事に花開いていた。それはまるで、盛夏に昇る入道雲。いや……


「——峰雲?」


  いつか夏。まるで祈る様なセミの歌声の中、彼女は白く透き通った左腕を持ち上げそれを呼んだ。


 入道雲。見上げても見上げきれないほどの水の固まりは、まるで巨大な城の様に思える程だ。


「高い山の事を峰って言うんだって。だから雲の山で峰雲。山雲っていうよりおしゃれでしょ?」


 そして彼女は不思議だと嘆いた。遥か地平線の向こう、どこからか沸き出した峰雲は富士山よりも高く立ち上ぼり、夏の空に咲く。

 
 天空の花、それは確かに僕たちの前に存在するのに、届くことはない。


 どれだけ手を伸ばしても、そこに足を走らせても、峰雲は僕らを待つことなく消えていくのだ。


「……なんか悲しいね。見えているのに、届かないなんて」


 ふと、僕がその言葉を口にした時、心臓の鼓動と共に底知れない不安が芽生えるのを感じた。


 僕の隣にいる彼女は、本当にそこにいるのだろうかと……。


 そこから眺める雲よりも白い肌を持つ彼女は未だ現実味がなく、また僕の思考回路ではもて余すほど、彼女は可愛かった。


 地球の公転よりも鈍く、彼女の白い手に指を近づける。


 ほんのちょっとの出来心。それでも僕は、彼女の存在が現実のものだと確かめたかったのだ。


 目線はまっすぐ地平線をとらえ、指だけがゆっくりと……。


 その時推定24mm。不意に動かした彼女の左薬指が、僕の中指と触れあった。


 瞬間、心臓が止まりそうだと悲鳴をあげ、僕は反射的にその指を引いてしまった。


 一方彼女も驚いた様に声を漏らし、僕の方へと目を向ける。


 目と目が合うコンマ3秒間、彼女の白い頬がいつもより色づいていたのは、きっと気のせいだろう。


「ご、ごめっ——」


 正直に言うと、その時の感情は記憶にない。だから伝えれるのは事実だけ。


 彼女の左手が、僕の右手を包み込んでいたという事実——


「——よかった。登吾くん、ちゃんといた」


 村の誰よりも通ったであろう、高台の小さな神社。


 僕と彼女と、そこに住むお稲荷さまだけが知っていた。山を切り開いて作られた国道の隙間、そこから僅かに見える大海を。


 太平洋、僕は彼女が好きなその景色が好きだった。


 勾配30度の坂道。車いすに座る夏希の足になれるのは、僕だけだから——